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角原富士(文殊山)

つのはらふじ(もんじゅさん)

標高 350.51 m 


2006年05月09日(火)
23℃ 晴れのち曇り

早苗の田に姿を映す角原富士

「越に来て、
富士とや云わん角原の
文殊ヶ嶽の 雪の曙」

平安時代の歌人 西行法師

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福井市側 ①角原コース ⑥大村コース ⑦二上コース 
鯖江市側 ⑧南井コース ⑨大正寺コース

 行程 : 登山口11:40-小文殊12:30/40-奥の院13:30/40-登山口14:30  

 

 角原(つのはら)富士の名に惹かれ角原コースを歩く。
初夏の気持ちよく晴れた日に歩く幸せ!!新緑はどこまでも緑、風さわやかなり

 一昨年の熊騒動から各地の登山口には「熊出没注意」の看板が多くなりましたね、この山にも熊が出るのか。

 登山口から700mくらいで林道が終点となり谷川の右岸に山道が緩やかに伸びている。

 少し進むと「グワッ、グーク゜」と何やら怪しげな鳴き声がする。熊出没の看板を見ていたので熊かな、イノシシかなと一瞬不安になる。よくよく観察すればかえるの恋の唄と判り不安も解消する。

 片側はコナラやカエデの雑木林に植林地帯もまじり、広い山道、文殊参りの歴史ある参道、今日は大型連休の終わった平日、だれ一人として出会わない。

 第一ベンチ、第二ベンチと休憩場所が設けられている。

 わずかばかり道脇にひっそりと咲く花をデジカメに写し取りながら歩いていると、小文殊の方からにぎやかな声が聞こえる。小文殊と大文殊の分岐で児童達の行列に出会う。引率の先生にお聞きすれば「下文殊小学校の児童と幼稚園児が全員二上ルートから登ったそうで、校外学習として春と秋に実施している」とのこと。文殊は校名、また智恵を司る菩薩なのでお参りせねばというところか。

 分岐から新緑まぶしい尾根を東北へ少し下り登り返せば「室堂」と呼ばれる小(児)文殊へ着く。 小(児)文殊室堂のすぐ前に御神木天狗杉と名付けられた古木が立っており、平らな広場が広がっている。

分岐へ戻り、西へ大文殊を目指す。

 大文殊への途中に展望台があり、
ここからは北側に福井市の街から日本海まで見ることができた。

 南側には鯖江市の田園風景が開け、一番手前が春日山、その奥に三里山(さんりやま)、再奥には日野山(越前富士)が雄大にそびえている

 北東にはまだ残雪の越前大日山か法恩寺山?

風が強まり、雲も厚くなり少々天気があやしくなってきた、先へ急ぎましょう

 展望台と大文殊との稜線にはカタクリの群生地があり、早い年には3月下旬から4月上旬にかけ可憐な花を咲かせるという。

 聞くところによると、鯖江のとなり今立町の「八ッ杉千年の森」に早春の里山の妖精、カタクリの群生があるそうだ。

 大文殊の文殊菩薩堂と西国33観音石像

 大文殊から奥の院への道は厳しい急勾配の木の根道や岩の露出したところ、大岩の重なった胎内潜りとつづく。


観世音菩薩を祀る奥の院

二等三角点はここに置かれている

基準点コード 5336-71-8701
2万5千分1地形図名:鯖江(北東)
1/50000地形図名 鯖江
二等三角点 文殊山

展望台横の文殊菩薩


チゴユリ

イカリソウ


エイレンソウ

・・・すみれ


ヤマルリソウ(山瑠璃草)

ホウチャクソウ(宝鐸草)


レッサーパンダ(西山公園動物園)

鯖江、西山公園のつつじは満開(約3万4千株)



 文殊山の資料を鯖江市役所よりいただく、その一部を以下に引用
(角原富士の山名となっている地名-角原は福井市にある)

泰澄大師と文殊山

 山の美しさ崇高さは誰もがいだく大自然への感慨である。人々が周囲の山々を"神"として恐れ崇拝したのは、歴史をさかのぼること、はるか大昔のことである。この山岳崇拝は、やがて仏教伝来により密教と結びつき、七~八世紀には独特の山岳信仰と呪術的祈祷宗教が形成されたようである。

 「越の大徳」と尊称される泰澄はこの時代の代表的な行者で、霊峰白山をはじめ、日野山・越智山・文殊山・三里山など、泰澄大師が開かれたという伝説は各所にあり、平泉寺・大谷寺・長泉寺など、泰澄を開基とする寺社も、また数多い。

 鯖江から北東に見られる文殊山は標高三六〇メートルという比較的低い山にもかかわらず、美しい姿ゆえ越前五山の一つに数えられている。特に西からの眺めは美しく、"角原富士"とも呼ばれ、西行法師の詠んだ「越に来て、富士とや云わん角原の文殊が岳の雪のあけぼの」の歌でも知られている。また山上の文殊菩薩は広く近郷一帯の信仰を集めている。

 伝承によれば、養老元年に泰澄大師が頂上(大文殊)には文殊菩薩を、奥の院(通称大汝)には観世音菩薩、室堂(小文殊)には阿弥陀如来と、自作の三尊を安置されたという。つい近年までは毎年四月二五日の文殊山祭りには、文殊菩薩の智恵を授かろうと、参詣する人たちで非常なにぎわいを見せたものである。

 文殊山への登り道は旧片上村の南井、旧上文殊村の角原、二上、大村などいくつもあり、旧片上の方から登るのが一番近道とされている。最も古い登り道は、大村からの参道で、ふもとには山上のお堂を管理する『文殊山槻厳寺』(リョウゴンジ)という古い真言宗の寺がある。

 当寺に徳毛秀徹住職を訪ね、幾体もの寺宝の仏像を拝し、古文書を見せていただきながら、千二百余年の歴史を聴いた。

 奈良時代に元正天皇より「五大山」の山号を賜って以来、代々の国主・領主の崇敬が厚く、朝倉時代には七堂伽藍が建ち並び、寺内三六坊を数えた。しかし天正年間に織田信長の兵火によって焼失してしまった。その後、福井藩主松平氏により大講堂が建立ぎれ、これを中心に上坊宝珠院と下坊成就院があった。ところが松平家の世継ぎ問題に巻き込まれて、上坊と下坊が対立し、やがて、また放火によって全ての坊舎を失ったという。

 現在の堂字は往時の隆盛を偲ぶべくもないが、堂内の仏像には越前きっての古刹の重みが感じられる。

私たちの祖先は文殊山を信仰し、智恵をもらって農業を営み、商工業を興して暮らしをたててきた。今も四月二五日の文殊山祭りの日には山麓の村々では、春祭りが行われて、この山と村の人々との長い深いつながりを語っている。

 昨年文殊山南側の山腹に立てられた『眼鏡産地』の広告塔も単なる広告だけのものではなく、世界一の生産量を誇る鯖江の眼鏡産業が、世界一の品質をも目指そうとする信仰的願いをこめたものであるという。

 文殊の峯に連なる山の端から初日が昇って新しい年が明けた。市民みんなの勤労と努力と、そして文殊の智恵によって、昭和五0年を鯖江市のさらに大きな躍進の年としたいものである。

〔五〇年一月号〕

「越前五山」 とは 越知山、蔵王山、白山、日野山、文殊山

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