上高地の美林
江戸時代、松本藩の藩有林のうちで、大量の木材産出が見込めるのは北アルプス南部諸峰の裾野を洗う梓川渓谷の流域であった。
伐採と整形そして流送には、毎年300人ほどが入山した。6月入山から11月の輸送まで作業がかかった。
明神池下流に貯留された木材は峡谷地帯を流れ下り松本の渡場まで旅をする。不時の大雨で流失したり水に沈んだり、盗まれたりで2割は減ったという。梓川の両岸に30人ずつ配置され上高地から流して行く。
彼らは9尺の鳶竿で滞っている木材をひっかけて流して行く。彼らの中には渓谷の絶壁で曲芸はだしの技を持っていたという。一番の難所は現在の釜トンネル付近の釜峡谷である。
彼らは梓川の全水流が狭い岩の廊下に絞り込まれているこの難所を「釜千間」と呼んでいた。この瀑流帯で千間(1間は1m長の薪180本くらいの量)もの薪が滝壷に飲み込まれ失われるほどとの表現だ。
しかし、この連瀑帯こそが、上高地の美林を守ったのであった。上高地は松本藩による200年間も木材伐採を受けてきたが原生林が今も残っている。
釜峡谷が6尺材の通過を許さなかったので、大木の刈りだしを抑制したのだ。
((山と渓谷より要約引用))
2001・1・15