97YMCC納山祭
午後2時JR道場駅と、日野さんと約束していたが、機関紙[ひろば」を編集していて、大幅に遅れてしまった。午後3時、駅には日野さんと田中順子さんが首を長くしてお待ちになっていた。ごめんなさい。
日野さんは今日はマイカー、大北商店で缶ビールを1ケース買って、車に乗せていただく。「もう、木下さんたちはテント場を確保している」、とのことだったが、「いい場所はこのはなさんに先を越された」とのこと。
「じゃ、茶店の橋を渡ったすぐそばでもいいやないか」ということで、行ってみれば、結局このはな労山、なにわこぶしの会、OWCCともども、YMCCも一緒の4山岳会合同キャンプファイヤーということになったらしい。
小島さんは早くも料理をして酒を呑みつつ、あたりかまわずみんなにこれを味わって見よ、とお勧めになる。料理は生わかめの酢の物、タコの頭のぶつ切り、マグロの落としの造りの3種類。私は磯の香豊かな生わかめが最高だなと思った。
YMCC20周年を迎え、小島さんが自ら企画して司会を始めた「20年の思い出の1シーンを語ろう」が進行する。以下、少しばかり紹介しよう。
春の鹿島槍ヶ岳のことだった。
岸さんがおしっこするからあっち向いとって、とかあったが、西俣本谷から鎌尾根を登った。稜線に出るには雪庇を削って登るわけだが、一生懸命がんばって、稜線にピッケル差し込んでやっと上がったとき、目の前に残雪をかぶった剣岳がドーンと聳え立ち、あまりの美しさに呆然となっ
た。岸さんも「ワッ」といったまま、しばらく動かなかった。
感激したことって何かな。
すべて、いろいろあったようだ。一番印象に強く残っているのは、前田Y、中川さんたちと厳冬期の滝谷を登ったときのことだ。その
とき、中川さんがアイゼンをはずし、拾おうとしたが谷底深く落としてしまった。厳冬期の滝谷はベルグラ(油氷)が張り付き、チムニーでは体がクルッと回っ
てしまうほど滑る。そういうところでアイゼンを失うとは何事か。とても腹立たしかった。おまけに、もう片方のアイゼンをもなくしてしまった。前田さんはな
かなかすごい人で、パーティを代わってくれたりした。(中川より、どうも申し訳ありませんでした。大変ご迷惑をおかけし、お詫びのしようもありません。)
北穂を越して涸沢へ下降するときに、今度は私と西淀のA君が空中をダイビングしてしまった。たまたま、ザイルが岩に引っかかって止まった。
僕は誇れる山はしていない。
思い出に残る山は、そう、今は亡き田中国秋さん、愛知の伊藤さん、田中(マ)さんと滝谷を登ったことです。田中国秋さんは地下足袋で登っていましたね。彼は自然監視員の腕章をつけて、植物をバッサバッサ採っていましたね。
初めて穂高に友達と行ったことが印象深いですね。
そのときは涸沢から奥穂高を登りました。今年の夏、南稜から奥穂高を登ったとき、大変疲れ、昔を思い出し穂高小屋で泊まりたいと思った。
初めての上高地から涸沢ハイキングと、立山は一ノ越から剣を登ったこと。
登れるか不安だったが、小学生でも運動靴で登っているよといわれ、気をよくして登り、御来光の写真を撮ったのが思い出に残っています。
[木下K]
穂高の屏風岩も黒部の丸山を川原君たちと登ったことも印象に深い。
インドヒマラヤの5800mも登った。
しかし何よりも鹿島槍で友を亡くしたこと(36歳のとき)が悔やまれる。いつまでもこのことを引きずって歩くのはどうか、との批判もあろうが、一歩下がって、考えて見よう。
[内田Y子]
大学時代はワンゲルでキスリング担いでトレーニングしていました。
5分歩いたらしんどい、というようなこともありましたが、新聞紙25kg入れてやり、あこがれの白馬岳に登りました。
北岳では六つ星の仲間(視覚障害者)とブロッケンに感動しました。当時、「ブロッケン」という機関紙を発行していました。
今、必死です。
錫杖岳では他から声をかけられたらしいですが、記憶にありません。「すごく恐い顔していた」とのことですが、どんな顔をしてたんでしょう。
[栄田H]
感動の思い出はありません。
でも、2年前、槍の肩の小屋から槍平へ下降するとき、視界悪く飛騨沢に入り込んでしまった。腰までのラッセルで雪崩を警戒しながらの下降だった。
[奥野K]
その昔、北鎌尾根をのり子さん(今の奥様)とたどったときのことが印象に深い。
[中川K]
やはり、最近のことが思い出としては大きい。
太閤道きのこハイキングで小川K代さんが、大きなクリタケを手に取ってにっこりしている顔がよかったな。
寒い朝だった。再び焚火を始め、おでんの残り物をつつきながら、酒をいただく。うどんも作って腹ごしらえ。
森本、栄田さんたちはアイゼン着けてのクライミング・トレーニング。2週間後の八ヶ岳登攀のため。日野さんも一緒に登りに行かれた。
後に残った中間たちは、残り酒をいただいて世間話。
1997.12.16 記: 中川 好治
その後、川原K君は、小島さんのプルージック方法でも、十分可能だ、との考え方を示された。より優れた方法が求められ、洗練されていくことを望んでやまない。