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長 峰 山(天狗塚)
(標高 687.8 m 山頂 4等三角点)


yama

2013年08月07日(水)


要注意 * 東尾根コース以外は普通の登山道はありません。 テープなど頼りにせず、地形図、方位器、高度計、GPSなどでルート確認

長峰山ルート図


2015年02月04日(水)

 晴れのちくもり  10℃

中尾根を登り、杣谷を下る

行程*
阪急六甲駅09:00 ~ 09:40登山口 ~ 11:00分岐 ~ 11:15山頂 昼食休憩12:10 ~ 13:15杣谷道へ出合 ~ 14:50阪急六甲駅
行程 約 9.7km

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2015年01月21日(水)

 晴れのちくもり  11℃

ハチノス西尾根を登り、ハチノス東尾根をくだる

行程*
阪急六甲駅09:00 ~ 09:51ハチノス西尾根登山口 ~ 11:30山頂 昼食休憩12:30 ~ 12:40ハチノス東尾根下山口 ~ 14:25ハチノス東尾根登山口 ~ 15:00阪急六甲駅
距離 約 9.5km

 六甲駅より1時間で登山口に着くのですが、この行程が非常に苦しいアスファルト道の登りです。
ハチノス西尾根登山口の標高は約230mなので、山頂まで450m、1時間半くらいです。

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登りはハチノス西尾根

明るい尾根道は岩が露出しており、岩歩きが楽しめます。

 とても傾斜が強く、頂上に近づくにつれ厳しい

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山火事の燃えた跡が痛々しい

振り返れば神戸港、摩耶埠頭からポートアイランド、無駄な赤字垂れ流しの神戸空港が見えています。

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真冬ですが今日の気温は春です。シャツ一で汗びっしょり

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摩耶山の東側がすぐ目の前に見えます。
  杣谷西尾根は厳しかった

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コウヤボウキ

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電子基準点

下りはハチノス東尾根

 

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こちらは尾根道ですが尾根に雑木が繁り、
展望が少ししかありません

東尾根は岩の露出は西尾根より少ない。
枯葉に足を取られながら滑り降りの感じです。

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4つの関電の送電線を通ります。

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下山途中、関電巡視路へ分岐のマーク

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長峰霊園の最上部に登山口があります。
  ここに下山した

 

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2013年08月07日(水) 晴れのちくもり  33℃

 東尾根を登り、山羊の戸渡り尾根を下る

行程*
阪急六甲駅 ~ 登山口 ~ 山頂 ~ 長峰山分岐 ~ 山羊の戸渡り尾根 ~ 六甲ケーブル ~ 阪急六甲駅

 

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 六甲は神戸の西の端、塩屋あたりから東へ連山が60km、 東の端は芦屋、西宮を越え宝塚までもつづいています。

六甲連山縦走ハイキング道が山々のピークを通り、南北にはたくさんの山があります。

 今日はその一峰、長峰山を歩きます。

阪急電車六甲駅から 市街を貫通する六甲川をさかのぼり 山へ入ります。
市街地からの登山口を探すのはいつも苦労するところですが登山口からは市の道標が完備され迷うことはない。

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この長峰山は、
1時間半から2時間くらいで登った記録が多いですが私達は3時間半ちかくかかりました。

35℃を超す酷暑の登山はきつかった。
身体全身から シャツもパンツも、
絞らなくても汗が流れています。

神戸八景の記念碑

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 この記念碑は長峰山の登山口の近くに立っています。 
神戸又新日報社選定 1932年8月9日

 現在は家屋や高層ビルが建ち並び、ここから見下ろす景色はあまりかんばしくはないが
当時はきっと素晴らしい展望が開けていたことだろう。

 

  詩吟 浦野渓石  より引用

布引之瀧 生田の森 千歳の恩讐 流れ尽くして清し

楠木の香は薫る湊川の社 順逆の遺訓 永に盡せず

若木の櫻樹 青葉の笛 須磨寺の鐘声 往時を傳う

萬山紅に映ず楓寺の秋 林間酒を暖む有馬の里

六甲の積雪 萬人を呼び 摩耶の山容 港都に燦たり

「布引の滝」「生田神社」「湊川神社」
「須磨寺」「楓寺」「有馬」「六甲山」「摩耶山」

「楓寺」はどこだろう、それに 「伯母野山住宅街」 がこの詩吟には無いが。。。。。。。。。

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夏の里山歩きは、麦藁帽と団扇が必携です

santyo

山頂の大岩群

六甲山側は松の木が大きく育ち見晴らしが悪いが
東西、南の展望は良いですよ。

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四等三角点

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    長文ですがどうぞ

棚田眞輔編著「神戸背山登山の思い出」

(交友プランニングセンター、1988)

天狗塚(ドクターズノッブ) 上記本より抜粋
1918年 住吉ゴート  

  外国人には"ドクターズノッブ"という名の方が通りがよく、神戸の山男の気に入りの場所である天狗塚は、六甲山の主要な地点を占める所で、とにかくまぎれもなくこの山並みをつなぐポイントとなっている。西側の杣谷道が摩耶山からこの地点を分離し、東側のアイスロードは、主峰とドーソンシティの近くの小高い丘から分離し、北側は深い谷がゴートリッジからその地点をへだてている。西南のこの谷は急峻な斜面をなし、天狗塚と六甲山とを結ぶ尾根となって突如途切れてしまう。その尾根は杣谷の最高点の山嶮で終わりになる。峯は灰色の花崗岩からなり、その頂から根本の頑丈な松の木が、683メートルの高さから、ヒトデのように八方へ放射状にひろがる樹木の多いスロープや尾根を見下している。

南面の3つの異なった尾根は、この地方の登山者にはもっともよく知られたものであるが、この中でもっとも険しいのは北側の谷からそびえ立っている、かもしか尾根と呼ばれるものである。ここは普通の山男なら、朝食と正午ごろまでのひまな時間をかけて登るのにうってつけの尾根である。山男がその活動の舞台を開拓する前ーーつまり征服すべき新しい世界の探素にのり出す前、かつてB.G.は同じシーズンに14回この山に登ったことがある。 この名の由来について神戸歴史研究会の福原仙次郎氏に尋ねた所では、山自体に関する記録は全く見当たらないとのことであった。そこで麓の篠原村の主だった人々に最近会いに行って、この問題について彼らがもっているかもしれない知識を聞き出そうとした。その結果この村の元村長であった、若松作兵衛という長年ここに住んでいる老人の口からおもしろい話が伝えられた。その話というのはこうである。昔々山頂の岩の近くに大きな根の木が1本あってその枝に天狗が座っていたのだという。このあたりに住んでいる人たちはこの鬼たちをたいそう恐れ、山頂に登ることをいましめていた。殺されるのがこわかったのである。ある時勇気のある男が山頂へった所、長い鼻をもった鬼のためにさんざんな目にあい、命からから逃げ戻ったことがある。文明の到来とともに迷信も後退し、先に述べた松の木は明治時代の初期、45年ほど前に切り倒された。もっとも切られた目的ははっきり分からない。五毛の駕籠屋の主、ソカソウキチさんによれば、昔、鼻の長い鬼たちが山頂の岩にやって来て腰かけたからそんな名がついたのだという。

何年か前のこと、ソーニクラフト博士が自分の専門外のことながら、せっせとこの山に登りつづけたといわれる。そこで古い山男の結社や神戸の外国人の団体の人々の間ではドクターズノッブとして有名である。天狗塚という名前そのものが山男の敏感な本能を刺激するものである。もっとも字義通りにいえば“鬼どもの墓”という意味にすぎない。

1917年か1918年の山のシーズンの始まった頃、古き結社の2人のメンバーと筆者は、この山へ向け午前9時10分に五毛(石屋と大石の上方)を出発した。東の方へ道をとり、数分もしないうちに大石の方へ流れる都賀川を渡って、すぐに左(北)に析れた。墓地へ着く少し手前で我々は天狗塚のもっとも長い支脈へ出た。この支脈の南端が天狗塚で、西灘村と六甲村の境をなし、支脈洽いに木こり道がつづく。この道は木こりがよく踏みならし、桧葉が散りしいていて、歩きやすくゆるやかであるが、々多少急で滑りやすい所もある。この支脈をたどるだけで1時問ほどかかり、天狗塚山稜の中では2番目に高い所である。山頂の“顔”の東方に当る。午前10時50分に頂上の岩まで来だのだが、短い休憩時間を含め、ゆっくり歩いて五毛から1時間40分の行程であった。高度は2250フィートで、摩耶山(西方)の樹木のよく繁った山頂より50フィートほど低い。ここからの眺めは神戸近郊のどの山からの眺めに劣らず見事である。

ゴートリッジが、かなり低く、下の谷の向こう真北に荒々しい姿を見せている。グルームの記念碑が北東にはっきりした目標となって見える。手入れの行き屈いたゴルフコースの美しい眺めが目を惹かずにはいない。ドーントの別荘もよく見える。そこへ行ったことのあるものが指をさし教えてくれた、とりわけ大阪湾一無数の白い帆を張った漁船が鏡のような海面に浮かび、時に海は上方の青い空と区別できなくなったりする一東方を双子山(フタゴヤマ)、葛城山、金剛山に、南方を泉州の山々に取りかこまれ、太平洋の方へ開いた所には、友が島、チノ島、それから紀淡海峡(紀州―淡路間の海峡)には沖ノ島の群島が点在している。西方の淡路島がこの湾と瀬戸内海 を分けている。六甲の連山、天狗塚、摩耶山、神戸近辺の山々がずらりと並ぶ北方は、まこと絵のような景色で、刻々に変わる太陽光線によって実に見事な色づけがされ、どんなに才能のある画家でさえ描きえないだろう。全景は、日本人のよくいう人工の公園の縮図(箱庭)のようである。

東から西へ走る山稜は、頭より高い灌木や笹が生い繁り、きこりやこの中を突き進んだ山男たちの通った跡が暦然としていた。ここから起伏の多い山稜を北西にとったが、ここは所々、急で滑りやすかった。ほとんど垂直で登はん不可能に見える。ワーレンとプールの尾根がもっともよく見えるのは、天狗塚尾根の西端を過ぎて北へ曲がる白っぽい地点で、ここは絶好の場所である。ここから道は北方へ通じ、摩耶一六甲道へ出た。川上からこの道へは半時間もあれば十分過ぎる位である。

過去、この山へ登った経験をここで語ってもさほど脇道へ逸れたことにもならないだろう。10年程前イギリス本国からの客を“おもてなし”の意味で連れ出したことがあった。その当時はまだ地理にうとかったので当然の事ながら、麓の村の人々に山頂への道を尋ねた。ところが村人たちは質問に答えず、われわれの意図に反対し、あの山はほとんど未知の世界であることを納得させようとした。しかしわれわれの決心は固く、こんなことこは挫けなかった。我々は南側の支脈の1つを遮二無二登って行った(もし私の記憶が正しければ先程の支脈である)。そして無事“頭”に到着した。

しかし先に述べた、天狗塚尾根の西端の断崖の所へ来た時、北へ行かないで尾根を越えてさらに進んでいった。ここは現在は西方へつづいており、西灘村と山田村の境界線になっている。天狗塚と摩耶山の問のコルまで半道ほど来てから我々は摩耶山から六甲道へ向かって真北ヘコースをとった。少し下りた時、われわれは”自然の鉄条網”の中へとびこんでしまった。6フィート以上も茨やつる草が木々にからみつき、それで余儀なく不格好な徒手体操をしなければならなかった。後退したり再び突進したり何度かくりかえしているうち、やっと突撃が成功し、顔や手にずい分ひっかき傷を負い、服も修繕絶望という状態ではあったが、無事例の道へ出ることができた。この戦いは距離にすれば2、300フィートであったろうが多分1時間は十分かかったと思う。このすさまじい地点は現在よりずっとひどい状態であったことを記憶すべきであり、外見よりもはるかにきびしい所であった。このことがあって以来、その友人との思い出はあまり良いものでなくなってしまった。もっとも蒙った損害に対しては適当に補償してくれたけれども。

その後も何回となくこのようにして、六甲山とお付会いを願ったおかげで、5つある主な支脈がいかなる山男にも登れるようになっている。  “シェルドン谷”(ここを通って西端の支脈を越えればこの山に登ることができる)は杣谷(木こり谷)を半ばほど登った所にあり、地元の人たちにはショーガ谷という名で知られている。
それから猫の揺りかごというのがある。この登り道は楽しい。 私の考えでは、この山は神戸から手軽に行ける、最もよい山としてまっ先に山男の注意を惹く十分な権利をもっている。

この山には松茸がたくさん生えているそうで、土地の人たちは人山料として20銭を支払えば、好きなだけ採集できる権利を得るのだそうだ。ところが、外部の人や初めての人には、いくら金額をはりこんでもこの特典がめったに与えられない。下心のある登山者は特定の期間中、このことを心にとめておく方がよい。

終りに、案内人なしでこの山に登ろうと企てる新しい登山者に一言いっておきた。下の方に住んでいる土地の人々に尋ねても、はかばかしい知識は得られないのだから、自分で道を見つけ突破する覚悟が必要である。大石からでも新在家からでも、天狗塚までまあ2時間というのが大体の相場といった所だろうか。


吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、

四十にして惑わず、五十にして天命を知る。


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