烏ノ塒屋山(宇陀富士)
標高 659.03 m


2010年10月13日(水)

 晴れ 気温27度

「塒」こんな字を見たことないでしょう。 うだふじ(からすのとややま 烏ノ塒屋山)
  日本の古い作られた伝説に「八咫烏」(やたがらす)が出てきますがその八咫烏が塒(ねぐら)としていたところから付けられたらしい。
 標高 659m 山頂に三等三角点があります、しかし登山用のちゃんとした道は無いのでいばらのけもの道や植林用の作業道を登らねばなりません。 当初の登山計画は山頂から北の大蔵寺へ下山する予定でしたがこちらへの道は事情があり、今は通行禁止になっており(大蔵寺)、予定を変更して恋の谷というロマンチックな谷を通るコースを往復しました。
 国道370号線を南下していますと明瞭な富士型のピークが望めますが一瞬の間に走り過ぎてしまい富士の写真を撮り損ないました。

: 富松(07:00)~阪神高速~登山口
: 登山口(14:30)~みはる温泉~往路を戻る~富松
歩く行程 : 距離 約  6.1 km 
記  録 : 登山口(10:25) ~ 山頂(12:30/13:25) ~ 登山口(14:25)

基準点コード  TR35135572401 点名  柳

種別等級  三等三角点 地形図  和歌山-吉野山 
種別等級  三等三角点
緯度 34°26′22.3315 経度   135°55′29.246所在地  奈良県吉野郡吉野町柳トラウラ1000-1番地

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大蔵寺よりの道は入山禁止です

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まず烏ノ塒屋山の北方にある大蔵寺を訪ねました。大蔵寺の寺伝によると用明天皇の勅願により聖徳太子が創建したと伝わる。 本堂、大師堂(重要文化財)は鎌倉時代の建築、立派なものでした。

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本堂

太子堂

太子堂

 千本橋バス停の先に広くなった路測があったので車を駐車して恋の谷へ向かった。
その昔恋に落ちた若い二人が山奥の開けた地に居をかまえました。いつしか人々はその谷間を恋の谷と呼ぶようになった。

 その後人が住みつき、30年くらい 前までは尼寺があり美しい安寿さんがいらしたそうです。今は無住の家が二軒ばかりあるのみで棚田は杉が植えられ見る影もありません

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恋の谷に残る民家

宇陀富士は宇陀市と吉野町の境界尾根の一峰です。この境界尾根を西へたどれば龍門岳に続いて、なおも西へと進むと明日香につづく。

 宇陀は古代には阿騎野と呼ばれ、皇室の狩猟地であった。

その中心あたりに道の駅ができ、「宇陀松山」という(2006年)重要伝統的建造物群保存地区に選定され古いまちなみが今も残っています。すぐとなりに「あきのの湯」もあります。

(第二水曜日が休み)

道が判りません

 恋の谷までは(吉野町三茶屋地区で宇陀市ではありません)国道370号線から舗装された林道があります。ここを少し進むと恋の谷のお墓があり、二股に分かれた道の簡易セメントで固められた右の方へ進むよう木製の道しるべが立っています。

セメント道は鉄塔の近くまでつづき、それからは地道です。なおも進めば谷道となり、谷の右が境界尾根で左が山頂から派生した支尾根です。

谷を詰め、シカよ けフェンスに行きあたり、さぁどちらの尾根を行こうかと思案、どちらも植林の中を木々をかき分け進むことになりそうなのでけもの道が明瞭な左尾根を進ん だ。

道は無いです

これがまた大変な山行となった。

かき分けかき分け、急坂を登らねばならなかった。

あの下にあった道しるべを立てた方たちは右の尾根を登っているのです。やはり右の境界尾根が正解でした。
どちらを登るにしても坂は急だし、木々をかき分けなければならないのは同じですが。

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残念ながらここからの展望はゼロ
個人の持山ですから切り開いてとは言えませんね

下山の尾根も同じ苦難の連続

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下山時、東南の展望(左端ー高見山から右へ吉野、大峰)

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ゲンノショウコ(現の証拠)

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アケボノソウ(谷筋に群生)

✡ 日帰り入浴 「あきのの湯」はお休み

 「あきのの湯」の第二水曜日が休みに当たってしまい今回も入浴できず、榛原の「みはる温泉」にて汗を流しました。

宇陀市

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