和気富士(城山)
(わけふじ)
標高 172.8m
立花06:50-姫路08:28-和気09:09
6時半、家を出る頃には雨は小止みとなる。快速を乗り継ぎ和気駅に着く。 駅から北へ歩くとすぐ西へ流れる金剛川の対岸に左右に均整の取れた美しい「和気富士」が眼前にある。麓より山頂まで松や雑木に覆われ、ピンク色の三つ葉ツツジが彩りを添える。標高は172.8mで町民の気軽に登れる里山である(マッタケ山のためシーズンは入山禁止となる)。山頂に明石景行・宣行の兄弟の北曽根城(黒山城)跡がある。
和気富士を起点に北のこうのうえやま神ノ上山へ連なる連山を総称して和気アルプスと呼ばれる。和気町の若い山の愛好者達が21ある峰々に名前を付け、このピークを踏む「和気アルプスーピーク21」なるコースをボランティアで整備している。私は和気富士に登るのを主目的とするが今日一日15ピークくらいを踏破してみようと思う。
因みに21のピークの名前は
①権現岩、②ハゲ山、③和気富士、④寺山、⑤烏帽子岩、⑥観音山、⑦エビ山、⑧岩山、⑨前ノ峰、(10)間ノ峰、(11)穂高山、(12)涸沢峰、(13)竜王山、(14)子竜王、(15)ジャンダルム、(16)奥ノ峰、(17)槍ガ峰、(18)白岩山、(19)神ノ上山、(20)まよいピーク、(21)剣峰である。
縦走の後で感じるのだがこの名前はピークの特徴をうまく捕らえて名付けられていると思う。
和気町主催で毎年ハイキング大会が催行されているが本年は今日がその大会の日である。
老若男女300人以上が鵜飼谷温泉を出発・帰着地点として4つのコースに分かれて歩く。ご褒美に温泉の無料入浴券が配られる。それでは出発。
金剛川にかかる富士見橋を渡り(09:40)和気富士の西を南北に走る片上鉄道廃線跡(遊歩道)横にある権現岩(60m)から登る。よじ登った屹立した岩の上からの眺めは好展望台である。ここから富士山頂まで白、淡いピンクや紫ピンクと様々な色合いの三つ葉ツツジがハイキング道に花のトンネルを作る。昨夜の雨に打たれた満開の花がみずみずしく、思わず「わあ、きれいや」とつぶやきたくなる。
富士山頂(10:05)には城の跡は石柱と説明板があるのみで木々に囲まれ電波塔が立つ。
芽吹き始めた落葉樹越しに和気の町並み、吉井川に合流する金剛川が見える。曇って春かすみは展望を悪くするが、今年の異常に多い黄砂はそれに輪をかける。自然現象で仕方ない事であるが今日の天気も残念ながらどんよりとしているので見とおしは良くない。
次々とピークを踏んで⑧岩山(170m)に着く(10:45)。昨年8月落雷(pm11:00)で山火事になったところ。消防員150人がヘッドランプをつけ1人20kgの水を担ぎ上げ消火したそうだ。
縦走路は素晴らしいツツジが咲き乱れる尾根歩き。
竜王山への分岐(11:20)にザックをキープして竜王山を往復する。この山頂は和気アルプスの全貌を展望する好地点。 和気富士へのコースはハイキング大会の参加者に沢山会ったが、こちらの方はアルプスらしい岩場などがあるので人が少ない。
ウグイスやエナガなど野鳥のさえずりを楽しみながらかなり厳しいアップダウンを繰り返す。
神ノ上山に着いた時(12:35)は皆さん下山された後で静かな山頂であった。神ノ上山は樹海に囲まれているが、山頂部は木が切り払われ展望が楽しめる。うまくすると 那岐山まで見えるそうだ。
北端の剣峰(岩峰)から南端の和気富士まで霞んだアルプスの峰々を遠望する。こんにも遠くまで歩いたもんだと自己満足。(13:25)
和気富士を振り返る
ザイテングラードと呼ばれている、岩の尾根を慎重に下る。横にロッククライマーのゲレンデとなる岩が点在する景色は壮大である。
笹原(13:15)に降り立ち、温泉まで20分くらい車道を歩く。入浴券は登山の途中、親切な町のハイキング参加者にいただいたので、ありがたく無料で入浴させてもらった。(入浴料500円) 大浴場、サウナ、打たせ湯や露天風呂が揃った温泉(日量150トン、PH9.5のアルカリ性単純温泉、泉温40℃)入浴後、駅まで3kmの遊歩道を歩き、16:19発の列車で家路につく。
北曽根城跡
和気町のシンボルのようにいわれている和気富士(曽根北の山)の山頂には、今は遠き過去のものとして忘れられたかのように,ただひっそりと苔むした戦国時代の古城跡が残っています。
ここに造られていた域は,北曽根城,またの名を黒山城とも呼ばれ、戦国時代の築城方式の代表的な構えである本丸・2の丸・3の丸・曲輸とおぼしき跡と、大きな水汲井戸などを一応完備しており、周辺一帯の展望が開け,山は険しく,攻めるに難しく,守るに易い、本格的な山城の条件を備え,それに山の尾根続きの北に位置する天神山城にとっては,東に位置する青山城とともに,最も重要な南の関門でもありました。
この北曽根城が城築されたのは,天文の初め頃(1534~5)だと考えられ、城主は天神山城主浦上宗景の重臣の一人明石大和守景行でした。字喜多三郎左衛門直家を中心とした家臣団が,浦上宗景に反旗を掲げた中に,この北曽根城の明石景行も含まれており,宗景は南の拠点を失い多くの家臣団を敵に回しては、いかに難攻不落を誇った天神山城も天正5年(1577)8月ついに落城しました。
この戦功によって明石氏は字喜多直家から,和気周辺の4,500石を与えられ,明石景行の弟右近宣行がその後を継ぎ,豊臣秀吉の朝鮮還征には宇喜多秀家に従って従軍し,文禄2年(1593)正月に討ら死にを遂げ、家督はその子右近久蔵が継ぎ,慶長5年(1600)の関ケ原の合戦に西軍の字喜多秀家に従い,敗戦の後浪入しましたが,元和元年(1615)大阪の陣で豊臣方に属し,敗戦の後,行方不明になったと伝えられております。
戦国の時代とともに過こした北曽根城もその主を失い,廃城となって荒れ果て,朽ら果ててしまい,過ぎ去りし強者どもの昔を今に忍ばせるのは、その城跡と苔むす2つの水汲み井戸を残すのみとなっています。