丹波富士(高城山)
たかしろやま 標高 462 m
JR宝塚~09:05発 (740円)(ホリデー丹波路)~篠山口09:46着=(タクシー2,380円)=本篠山
山へ山へと足は向かう。今日も真夏の太陽がジリジリと照りつけるのだろう。昨夜揃えたザックを肩に8時に家を出る。
JRの時刻表に載っていない「ホリデー丹波路」号はガラガラで、ゆったりと篠山口駅へ。東出口を出て本篠山行きのバスを探すがバス停その物も無くなっているので不審に思い、おばさんに聞くと「反対側ですよ」と云う。
福知山線が篠山口駅まで複線化されたのを期に、この4月に駅舎が立て替えられ、ターミナルが以前は田畑であった西へ新設されたようだ。
仕方なく又陸橋を渡り西口へ行くと、今まさにバスは発車するところ。
走っても追いつかぬ。次は30分後だ。
友と相談し「相乗りを探してタクシーにしよう」と、同じように乗り遅れた人に呼びかけて4人で本篠山まで行く。
ここから登山口まで約4kmのアスファルト道を歩く事になる。
車の往来も結構多くて、暑く焼けた路面をブツブツ文句を言いながら進む。本来ここはタクシーを利用するつもりであったが、バスに乗り遅れたので予算の都合上歩くはめになった。
登山口の看板より
一目でそれとわかる高城山(丹波富士と呼ばれ標高549m)の山麓にある春日神社に50分で着く。
登山コースはたくさん有るが、私達は一番ポピュラーな「右衛門コース」を登り「血洗いコース」を下る事にした。登り下りとも40分くらいで、ファミリーハイクや毎日登山に恰好の山である。
丹波には80以上の山城があった。
高城山には八上城が築かれ城主は丹波一の武将・波多野秀治であった。
織田信長の命を受けた明智光秀軍が初めて丹波へ侵入したのは1575年11月。亀岡城など丹波の諸城を落とし、1578年3月八上城へ迫った。
しかしその堅固な城の攻略は容易でないと考え、5千の軍勢で包囲作戦を採る。守る波多野勢は300ほど。
1579年5月、篭城の長期化で食料不足に陥り、抵抗か和平かで揺れる波多野に対し光秀からは和議が持ち上がる。
光秀は実の母を八上城へ人質に差し出し、秀治・秀尚兄弟の助命を条件に和解。 だが信長は「度重なる裏切り、侍の本分を知らず」と許さず、安土城下で殺してしまう。違約に怒り波多野方は光秀の母を串刺しにしたと云われている。
この落城の悲劇は真実かどうかは今もって定かでない。
落城後八上城は光秀、前田玄以、松平康重と城主が変わり、篠山城の完成で廃城となった。
春日神社に参拝して、神社横から裏手に伸びている登山道を進む。木々がうっそうと茂っており、炎天がさえぎられ少し涼しい。
下の茶屋丸、上の茶屋丸、中の壇、右衛門丸と標識が八上城址の砦を示している。
広くはないが台地状で櫓などがあったのだろうと想像しながら、展望を楽しむ。
三の丸、二の丸と続き、山頂に本丸跡がわずかにしのばれる。
山頂本丸跡にて
本丸跡には記念碑があるのみで、潅木が茂っているが、北側は少し開けており多紀アルプスが望まれ、丹波の山々に囲まれた篠山盆地の街並みがかすんでいる。
昼は、和ソバをカンクーラーに入れ氷で冷やして持って来たのを調理。
青い物がほしいなと思い横を見ると有るではないか、伸びきったシダの先端よりワラビがいっぱい。早速摘んでコッフェルに入れる。
ソバを肴に乾杯。
人っ子一人いない八上城跡で微風に吹かれ、人生の瞬間を夢見るこの幸せは永く続くのかと。
国道372号線(デカンショ街道)の車中より
(2012年11月03日撮影)
デカンショ祭りでにぎやかであろう篠山を観光して帰ろうと早々に出発。
北東へ下る尾根道は坂もゆるやかで歩きやすい。丹波川の流れる田畑を眼下にゆっくりゆっくりと行く。車道に出てからの道は、午後の太陽にいじめられ辛い。
流しのタクシーなど一台も来るはずもないのに後ろを振り返りながら歩く。
親切な農家の庭の水道を使わしてもらい水を浴び、真っ赤に熟れたトマトをいただきました。
アスファルト道を1時間半もかかり駅に着けばもう参ってしまい観光はやめ。。。
富士を訪ねて、暑さにもめげず、寒さにもめげず、まだまだ続く。
18年ぶりの訪問です。
梅雨の中休み、昨日まで雨がつづき山道は湿っています。気温も28℃と上昇して、歩けば汗が噴き出してきます。全山植林と広葉落葉樹で覆われています。
登山口の標高は200m少し、山頂まで260mくらいの登りです。春日神社口登りすぐのところに立派なトイレが出来ています。
樹林帯のうす暗い道が下の茶屋丸には篠山市街が見えるように木々が切り開かれています。
ここで流れる汗を拭き一服、お茶休憩
登山道は急坂の連続です。
疑似木材のコンクリート製の丸太が埋め込まれて、登山道はジグザグにつづく。
三ノ丸はかなり広い
山頂本丸は三ノ丸より狭いかな? 笹で全面がおおわれています。
(左 初代城主 波多野秀治公の碑)
以前と変わらず展望は北側の多紀連山のみ
下山後、立ち寄りました
くろまんぷ
木津から林田に通じる津坂トンネルのことです。
明治14年(1881)に柏原村の福井伊之助が工事費1,175円で請け負ったのですが、固い岩盤、所々にある軟岩の崩壊で、大変な難工事となり、工費の不足は柏原の人達が私財を投げ打って完成させ、明治の隠れた偉業といわれました。
別称「くろまんぷ」の元となった岩肌は、現在コンクリートで固められ見えませんが、周囲の様子から当時の苦労をしのぶことができます。
石製トンネルで現在も使用されているものの中で、日本最古とも言われています。
参照 https://www.town.inagawa.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi/rekishikaidou/sansaku/1416557157678.html