能 勢 富 士 (城山)
のせふじ 標高 428.1 m
大里大池に映る能勢富士
北攝能勢には名山の「剣尾山」(関西百名山)が有名であるが林道をへだててすぐ南に能勢で一番美しい山と自負する城山があり「能勢富士」と呼ばれていた。
満々と水を貯めた大里大池に映る山容は美しい三角形である。
残念ながらこの山がかって「能勢富士」と呼ばれていたことは里人もほとんど知らなくなっている。観光協会で伺っても資料は無かったし、鯉の釣堀として利用しておられる大里大池の主人も「永年ここに住んでいるが能勢富士なんて聞いたこともない」とのことだった。
古来「能勢富士」といわれる城山は、標高428メートルの険峻な円錐状の山でこの付近山城中では最北・最高位にあつて、北に高峰剣尾山を負い、南に山田・今酉・森上・栗栖・片山などの山城を望み、眼下に三田街道(東西)・丹州街道(南北)を見下す位置にある。
建久2年(1191)能勢氏の祖国基が当郡に来注以来、能勢氏の詰城であつた。戦乱期の天文年間(1532~55)大町右衛門尉宗長が在城し、水原氏らと能勢西郷衆の雄として摂丹群雄の間に陣を張つたが、大町豊後守宗清・弥太郎宗治兄弟は織田信澄・塩川長満連合軍のために、天正七年(1579)栗栖に出戦敗死して落城した。
山頂は南北二峰に分れ、北に本丸、二の丸とやや高く、南に広い三の丸が連なり、本丸の西側には腰郭があり石垣も残つている。郭跡からは土師器・染付・白磁(中国製)の小皿が全面に、雁股族・釘・碁石が三の丸から出土し、消炭がこれら上面に全域にわたり出土するのは、伝説にもある焼亡を物語るものである。
東方屋根を下つた搦手には、土塁を廻らし虎口をもつ厩跡と伝える場所があり、付近にはこれを中心に腰郭・空堀・竪堀などが集中している。
大手は西面山辺側で南尾根の麓「平井」にあり、山辺側山麓には地侍の平居・安浦・秋山・山瀬などの屋敷が多く 当地方ことに西郷にとっては重要な城と思われ、位置・規模とも多くの山城に優つている。
2002年3月(能勢町教育委員会)
(註) 大手は南西にあたり、蛇行しながら二つの峰の間の郭に登りつめるとある。
(日本城郭大系より引用)
荒れるにまかせた城山台上部
能勢まで自宅より27kmの距離。剣尾山に隆盛をきわめた月峯寺が盛衰の波乱をこえて、城山の麓に江戸初期に再建され、本堂は数年前に新築された。城山に登るルートとして麓にあるこの月峯寺①から中腹の城山台(造成住宅地)を経て南尾根を直登することにする。
城山台は多くの造成区画に家が未建設で痛々しいまでに荒れ放題の様子となっており波豆富士の麓の造成地も同じような状況だったことを思い出す。
最上部の家から左へつづく道を進み、登れそうな隙間②を見つけて山に踏み込む。
そのまま上へ上へと松まじりの雑木の樹林を登る。下草は少なく、木と木の隙間も割とあり、この時季の道無き山であるが登りに特に苦労しない。
獣道を人が少しは歩いているかなとの気配を感じながら登る。岩の横で見た黒い糞はイノシシのものだろうか。
登るのつれ勾配はきつくなり、大きな露岩があちこちに現れるがジグザグに一歩一歩進む。どんな山も歩いておれば目的地に着くものだ。
セミはまだ鳴き始めていないし、今日は小鳥の声も聞こえない。暑いなあ!とつぶやけども誰もいない静かな城山。
アンテナの立つ三の丸
40分くらい汗にまみれて鷹爪山の山頂③三角点を踏む。標高は428.1m
城山は二つの峰よりなりここは南峰で山辺城の三の丸だそうだ。北峰④に二の丸、一の丸がある。雑草が生い茂り、城について知識の乏しいものにとって何処が何やら理解しにくかった。少しは山城のことを習うべきか。
北尾根
下りは北へ伸びた急な尾根を忠実に降りる。写真のような境界杭が点点とあり、雑木も刈り払われていたので砂防ダム湖⑤に15分で着く。
お昼寝していた大きな蛇を踏みそうになって飛び下がった時に滑って脛を打ったが、帰って見ると血が固まっていた。
砂防ダム湖
湖ではアオサギが遊び、カイツブリがのんびり浮かんでいた。
流れで手を洗い小休止をとる。こんな所にも魚影を見たのにはびっくりだ。
林道の峠
ダム湖からはすぐ横を通る林道に飛び出しこの林道を歩く。ゆるい坂を上り詰めれば峠⑥。峠の杉の一本に赤テープが巻かれていたが地図に黒の破線で記した城の砦経由ルートを取ればここへ着く。
私の姿に驚いた鹿一頭が峠の向こうへ走り去った。
林道終点⑦から車を置いた月峯寺まで2kmを戻り、約2時間の能勢富士めぐりは無事終わることができた。
早苗に影を映す能勢富士
(国道173号線より望む)
月峯寺
月峯寺の石仏
鷹爪山頂の4等3角点
アザミ
ツキミソウ 月見草
畦のお花畑
あまがえる