交野山(河内富士)
標高 344m
1997年4月からJR東海道線の尼崎駅と片町線(学研都市線)の片町駅が東西線で結ばれた。このラインができ、普通電車の終点が「松井山手駅」になった為一躍有名になったのが今まで聞いたこともなかった「松井山手駅」だ。
松井山手駅の3駅大阪寄りの津田駅に近づくと車窓右手にきれいな形をした交野山が見えます。
ここは交野市で(かたのし)と読みますが山は交野山(こうのさん)と呼ばれており、愛称は「河内富士」と古くから親しまれている。
生駒連山の一番北の端になる標高344mの山で、生駒ー私市ー交野と続く大阪環状遊歩道が山頂を通っている。登るコースは、遊歩道の他にも沢山ある。
「かいがけの道(砂利道)」「大和郡山線(舗装道)」「石仏の道」などなどで山道、案内板などきれいに整備され家族連れでのハイキングに適当なコースです。
津田駅(北新地より約30分)は西側に出口があり、駅前の府道を700mくらい南へ行き(3つ目の信号)機物(はたもの)神社の看板を見て左折する。
機物神社は棚機姫(たなばたひめ)を祀り、古い織機が奉納されている。古くから機織りの技術者がその技術を伝えたところと云う。そして現在も七夕祭りが盛大に行われている。
鳥居をぬけ、JR線を越え最初の大きな三叉路を右折する。ここが神宮寺の集落である。
ここの農家は山麓を利用したミカン、ぶどうで生計を立てている。
8月初旬はぶどうの収穫の最盛期でどの家もおじいちゃんとおばあちゃんが出荷のための箱詰めをしている。私はぶどうを除けば大抵の果物は大好きです。
少し味見してみようと思い「200円分下さい」と云うと、産地直売はカートン単位にしているのだろう「円単位に売ったこと無い」と云いつつ一房二房袋に入れて下さる。
さて、おじいちゃんに道を教えてもらい進む。
気持ちの良いミカンやぶどう畑の中を10分くらいで開けた台地に着く。
右側に人の高さくらいの石に彫られた弥勒石仏(鎌倉初期)が東に向いている。
右に谷を見ながら進むと右手に大きな石があり、谷に面した側に阿弥陀三尊仏(室町中期)が彫り込まれている。
舗装された道を汗をふきふき登って行くと左手に小さな池があり、道の右手の山裾に露出した岩に美しい阿弥陀仏を中に左右に観音と勢至菩薩立像(室町時代)が彫られている。
ここから少し進むと細い流れに架かった丸太の橋をわたる。
「交野山ご来光道」(山頂まで750m)の石柱の標識があり、やっと土の道に出会う。
道は丸太で階段状に整備され、急な登りにあえぐ。10分で大きな石の(木のベンチがある)展望休憩所につく。急な登りで一気に吹き出した汗をふき、河内平野のGOODな景色を楽しむ。
すぐ環状遊歩道に合流し最後の登り付近には、はしご、クサリなどのある岩場を越すともうそこが山頂で休憩所から約15分くらいで到着する。
この岩はご神体となっており岩の前には小さな祠が祀られている。
落書きなどをせぬようにと表示が有るもののペンキで名前を沢山書いてある。裏から見れば高さ2~30mはある巨岩で、茶色に錆びたハーケンやボルトが1mおきに点々と打たれている。
クラックも殆どないフェースで人工登攀の練習をしたのだろう。
山頂南側に岩倉開元寺跡があり、奈良時代に建立され室町中期頃まで栄え、比叡山延暦寺の末寺として山岳修験者の道場でもあった。
「交野山の来光」は交野八景の一つに選ばれているし、交野の人たちの古くからの信仰の山だそうで、真夏だが登山者も多く、近所の人たちの手ごろな山となっているようだ。
少し早いが駅前の「ほかべん」を木陰で食べながら、晴れているが夏特有の霞んだ展望を目に焼き付ける。
北に京の町、東にゴルフ場から宇治の山々、南に生駒山系、西に河内平野を見て、その向こうに北摂の連山などなど。今日の360度の河内の展望はすばらしかったが、いつの日にか交野八景のご来光を拝みたいものだ。
北へ続く遊歩道(オニヤンマの小路)を下るとそこには小さなトンボ池、続くイタドリの小路を行けば白旗池がある。池畔にはふれあいセンターがあり、この付近で見られる昆虫、野鳥や植物などを展示している。
ここからも研究路は続き、雑木林の平坦な気持ち良い道である。
国見山への分岐を過ぎる頃から道は下りとなり、国見池、地蔵池の横を通り、約一時間で津田駅に着く。
「空清ければ、淡路も見える 交野山」
交野市役所の北部(府道7号線)より展望
朝には小雨が降っており、天気予報では昼まで雨でしたが10時には止むだろうと勝手に決め込み、出発を遅らせ、川西能勢口をマイカーで09:30出発しました。
登山口に着くころには雨は止み、気温も比較的低くて幸いです。
行程 : (11:10)機物神社P(11:35) ~ (12:00)源氏の滝(12:05) ~ せせらぎの道 ~ (12:40)白旗池いきものふれあいセンター ~ (12:55)交野山(13:10) ~ (13:20)東屋で昼食(14:00) ~ 石仏の道(ご来光道) ~ (14:50)機物神社P
機物神社に展示の「織姫のはたおりき」
葉っぱが虫に食われたように不思議な形になっています。木の葉の表面に筆で文字が書けるそうです。
この木の横にはタラヨウの木も植わってします。タラヨウの葉にも上側に文字が書けますがこちらは筆でなく、固いもので切り込むことで文字を記します。紙の無かった時代、この様なものを利用していたのかもしれません。
源氏の滝(元寺瀧ーげんじたき)
せせらぎコースにはこんな景色も、涼しい
白旗池から「おにやんまの小路」を登れば河内富士の山頂です
観音岩
観音岩に彫られている不動明王の梵字
夏はやっぱり冷やしそーめんが一番
この石仏は、岩倉開元寺の伽藍中枢部への登り□に位置して、南側に阿弥陀三尊を彫り込んでいます。岩の上半部を大きく決って平らな面を造り出し、三尊像を半肉彫りにしています。中尊の阿弥陀如来坐像は蓮華座上に坐り、衣を偏極右肩にまとい、両手は膝前に組んで弥陀の定印を結んでいます。膝の衣文の表現は省略されています。向かって右側に合掌して蓮華座に立つ勢至菩薩は、簡単に頭髪部と眉目をあらわし、衣文の表現もほとんど省略し、蓮華座も椀状の輪郭のみ表現されています。左側の観音菩薩立像は両手の上に蓮台らしきものを持っています。像の表現は勢至と同じで簡略化されています。
時 代 15世紀頃(室町時代) 交野市教育委員会
川の懸崖石土方部に南面して半月形の刳り込みをつくり、その中に三尊の石仏を半肉彫りしています。中央の仏は頭部円頂と思われますが、衣を通肩にまとい、蓮華座の上に坐り、両手を膝前で組み、弥陀の定印を輔んだ阿弥陀如来の坐像と考えられます。両脇には合掌する比丘形の立像を彫り出しており、通常の阿弥陀三尊と断定するにはやや無理があるので、三尊像という呼称にしました。中尊向かって右脇に「文明十一年己亥二月日」、左脇に「道満敬白」の刻銘があり、1479年の作と判ります。また石仏の枠の外側脇に梵字で阿弥陀如来の種子である「キリーク」を陰刻しています。
1479年(室町時代)交野市教育委員会
(市指定文化財)
この石仏は舟形光背の内側に阿弥陀如来立像が肉彫りされていますが、残念なことに頭部右半分及び光背の上部を欠損しています。像容は、首に三道を表し、衣は通肩にまとい、右手を胸前に挙げ、左手を下げた来迎印を結んでいます。この石仏のある北側斜面は「鳩が谷」と呼ばれここから骨壷が発見されたといいます。「鳩が谷」は「墓が谷」が訛ったともとらえられ、岩倉開元寺の墓地であった可能性があります。そのため、この石仏も墓地に伴う供養のための造立かと考えられます。
時 代 16世紀(室町時代)
この石仏は、岩倉開元寺の登山道入口に位置し、岩倉開元寺の境域を示す傍示石と考えられます。これより内は神聖なる浄域であることを示すため、弥勒菩薩の像がこの石に刻まれたものと考えられます。
本像は、二重円相光背の内に正面向きの薄肉彫りの坐像としてあらわされています。如来形で、首に三道をあらわし柄衣を纏い、右手は胸前に挙げて施無畏の印を、左手は膝前に掌をふせて触地印をあらわにし、結跏跌座し蓮華座の上に坐っています。顔の表情などにやや稚拙さが感じられるものの、おおらかでゆったりと表現され、すてがたい魅力を醸し出した仏像です。
時 代 13世紀(鎌倉時代)
交野山のふもとにはブドウ農家が産直で採れたてのブドウを販売しています。
種なし、薄い皮ごと食べられる8年前に新品種!
安芸津21号と白南の掛け合わせの新星です!
ブドウの品種は4000以上ともいわれていますが味見して気に入り、おみやげにしました。(一房 1200円)
<<< 交野市観光協会の資料を引用しています >>>
妙見の観桜、星の森の寒月、かいがけの錦繍、天の樟船渓谷の朝霧
獅子窟の青嵐、尺治の翠影、源氏滝の清涼、交野山の来光
交野はまた、機織りの盛んな地域でもありました。交野山を中心とした山麓の村々では、渡来人により技術が伝えられたという伝承かあります。それを裏付けるように、交野枚方にまたがる茄子作遺跡では、古墳時代から飛鳥時代にかけての機織り具が出土しています。
機織りの神様を御祭神としている機織神社からは、冬至の日になると、交野山の方向からの日の出を見ることかできます。交野山の裏側に白い光の帯か浮き上がり、山を鮮やかに浮き立たせる神秘的な光景です。
交野山はその印象的な姿から、古<から地域のシンボルとなってきました。
<<< 交野市観光協会の資料を引用しています >>>