関 富 士
標高 242.4m
東大寺二月堂で修二会の頃は決まって寒く、お水取りが終われば関西にも春が訪れる。
一昨日の大雪の寒波が残っている中、大阪より名阪国道を関ICまで走った。標高500mの大和高原は残雪で白く、道の電光表示板は気温が-1度を指していた。寒ぶ!!。
ICを降りるとドーム型の富士が建物の向こうに見える。
関富士は独立峰でどの方角からもキレイな頂が丸い円錐形に見えるが、先のとがった三角の山容に美しく見える方角は東北東の鷺山地区からである。
ICからの道は国道1号線に交差するので、左折し、JR関駅の信号を右折し鷺山へ向かった。
この地は茶畑が一面に広がっており、その後に朝の陽光を浴びて静かに関富士がある。
関富士は標高242.8mの低山、すぐ横に観音山、筆拾山や羽黒山と共に関町の北部にあり、その北には雪をいただいた鈴鹿の南部の山が連なっている。
山肌に大岩が点々とある特徴的な様相を見せる羽黒山は山頂まで登山道が通じているし、観音山~筆拾山~鈴鹿へも自然歩道が整備されている。しかし関を象徴する関富士には道が整っていない。
わずかに好き人が登る踏み跡が在るばかりだ。
山の西裾に車を5台ばかり駐車できる平らな場所があり、そこからの尾根に道がある。
入り口には目印の赤テープが細い木に巻かれている。ここの標高は150mくらいなので山頂までの標高差は約90mである。
登る準備をしている時ゴールデンレトレバーの白犬を連れた若者が来たので、「この関富士に登ったことありますか」と伺うと「2~30分かかるよ」とか「昔、のろしに使っていたので台石積跡がある」と話してくれた。
また以前村人に「山頂にはカラスがいっぱいで怖い山や」と聞いたこともある。
さてさて、この富士は何なのか?の疑問を持って登ることになった。
(09:15)ブッシュをかきわけ山に踏み込む。
雪解け水で湿った足元はズルズル滑る。シダや葉が五裂したコシダの露にパンツの裾を濡らしながら歩く。
小山とは思われないような急傾斜が続き細い踏み跡を木につかまって登る。
背後に三角錐の筆拾山が望まれ、右手には羽黒山が見えてくるともう半分の地点である。
山には松や常緑、落葉樹が混生しており、ほとんど展望がきかない。
(09:30)ここが山頂かなと思われる所に大きな露岩があるが、なおも平らな頂上の細い尾根を50mばかり進むと山頂の標識が埋まっており、木の幹には「関富士」と書かれた2枚の表示がぶら下がっていた。
一枚は薄い鉄板にペンキで、もう一枚はプラ板に山名、標高と年月が記されている。私はまだこのような表示はしたことがない。いつか何の標式もない富士に登ったときに掲示してみたい気がする。
山頂からはわずかに開けた東方に関の町並みが望まれる。
しばらく休憩、同行の友人と記念写真を撮る。
別の下山路を取ろうと思い、東南方向へも踏み跡が有りそうなので少し下ってみるも、あんまり歩かれていないと見えて消えかけた踏み跡は心もとないので、往路を下山した。
関富士のすぐ南に観音山がある。西国33観音霊場の観音菩薩の石像がこの山の南東斜面からほとんど山頂付近まで点々と置かれている。
いつのころの石仏か私には判らないがかなり年代の古いものもあるようだ。観音山と名のつくくらいなので歴史があるに違いないと思う。
下から順に拝みながら写真に写しつつ登っていった。
山頂の展望所に着いた時、テーブルの横で大きな鳥が丸くなってころがっている。死んでいるのかなと思い近づいてよく見ると「緑色したきれいなキジ」だった。同行の友人に「キジがいる」と呼びかけると友人はさっとカメラを出しかけた。
この私の声に気付いたキジがもそもそと動き出し、飛んで行く。寝ていたキジを、ま近かに見たのは初めてのことだった。(勇気のあるキジだ)
日本三関の一つ「鈴鹿の関」が有った所から「関」と云う町名になったそうで、東海道53次の関宿でも有名である。その関宿の町並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、江戸時代からの本陣跡など古い家屋が残っている。
西の追分から東の追分まで約1.8km電柱など取り払われ当時の町並みが再現され、一歩踏み入れると300年前にタイムトリップできる。