播磨小富士
(三草山)
標高 423.9m
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ふもとの無量壽寺の本堂前にて
播磨小富士の山容
(2015年12月撮影)
中国道ひょうご東条ICを出て中国道そいにの県道17号線(三田―西脇)を走り下久米から北へ1kmで鹿野登山口へ着く。(100mくらい東に駐車場)登山口には月例登山会やルートの表示板などがある。
三草山は、標高423.9mで播磨小富士の愛称がある。(確かな出典は不明)
寿永3年(1184)2月、源九郎義経率いる1万騎は、丹波小野原に布陣し夜半、民家や山野に火を放ち、三草山西山口に陣取る平家7千余騎を襲撃、屋島へ敗走させる。
南北朝の時代、播磨から京都へ入る要衝の地(丹波街道―国道372号線) 三草山に赤松出羽守則友が山城を建てる。
鹿野コース(3km所要120分)
畑コース(1.3km所要40分)
三草コース(2.4km所要60分)
3ヶ所の遊歩道が整備されている。なお,朝光寺のある畑方面からの登り口が,三草山山頂への最短コースである。
鹿野から登り畑コースを下ることにしてさあ出発だ。(なお三草コースは上部に岩場がありクサリが取り付けられているが三つの内で一番ハードな道)
(08:53)ドングリのある小道と名付けよう。このあたりは岩山が主で表土も薄くて大木は育たないようで樫、くぬぎ、椎など秋にドングリの実がなる木々が多い。登山口近くは背の高い木に囲まれた道もすぐ背の低い潅木林に変わり振り返れば田園風景が美しい。この見晴らしの良い場所にベンチがあり私達も一休みして汗を拭い一服。
道は比較的緩やかで遊歩道まちがいなし。道脇の木に大小また先の尖ったのや扁平のものなど様々である。子供心に返って形の違うものを一つづつポケットに入れる。小さなピークを三つほど越え四つ目のピークに着くと5合目の表示がある。(10:15)
道の表土が流され下の岩が露出しているがなだらかな坂は歩くのに苦にはならず、ここの小さなピークの尾根歩きは楽しい。この道は振り返り振り返り登ることだ。ここまで(7合目)来ると三草登山口にある大きな昭和池が右に見えてくる。左を見ればはるか遠くに明石海峡大橋がうっすらとかすむ。(10:43)
心地よい微風の中をまたいくつかピークを越えると広々とした山頂に着く。友人の万歩計は6105歩となっていた。
先ず京都北野神社から勧請し菅原道真を祭った三草山神社に一礼。山頂には記念碑、方位案内板や記念スタンプ箱がある。展望は申し分なく播磨地方の山々はもとより淡路島まで見晴らせる。
天気はいいし酒はうまい、マットに座り込んで山は良いなぁと思える一時である。さぁ下山しょうと立ちあがり横を見ますと、山頂のベンチに座って仲の良いご夫婦らしき方がいらっしゃる。挨拶がてら「いい感じですね、どちらから?」「小野から、畑コースを登って来ました」を聞き、内心チャンスと思う。というのは、下山してから鹿野への4kmのアスファルト道をヒッチハイクしようとの山男らしからぬ魂胆が。
お先にと声をかけ下りもゆっくりペースで歩く。
前方に東条湖ランドの観覧車が見え、形の良い三角錐の山々があちこちにある。畑コースは急な坂道の下りが続くので距離は短い。畑登山口へは40分くらいで着く。
車が一台止めてある大きな貯水池横の駐車場でしばらくくつろいでいるとさっき声を掛けた仲の良いご夫婦が下山してくる。車で帰る様子なので「早足ですね」とほめると「ゆっくりですよ」と返事が帰る。「すみません、帰り道に鹿野の方を通られますか」の問いに「はい」と答えられる。「鹿野に車を置いているのですが、そこまで便乗お願いできませんか」とお願いすると「どうぞ」と気持ち良いご返事が口髭のやさしいおじさんから。旅は道連れと勝手な解釈で乗せてもらった。
ふるさとの富士はほとんど山容が美しいものだが、この山はぐるりと回ってもそれらしき姿にお目に掛かれなかった。本当に富士なのか。社町の資料を少し見ても判らなかった。確たる出典を探してみたいものの一富士です。
下山後少し時間があったので本殿が国宝の朝光寺か西国33観音霊場清水寺のどちらかへ行こうと相談したところ、霊場参りをしている人の意見を採り、清水寺へむかう。
今日は時間の都合上、最短コースの畑登山口から登り降りです。
市内のご婦人パーティ二組に登山道で遭いましたがこの時期平日は静かなふるさとの富士でした。
山容は三角錐の富士そのものですね
前回は富士に見えるポイントが探せなかったのですが
ここからはご覧の通り、富士山です
世界に一つ!加東遺産 募集したところ数十か所の推薦があったそうですが、その中から9ヶ所が選び抜かれたそうです。
登山口12:20 ~ 山頂昼食13:05/13:55 ~ 登山口14:30
日陰にうっすらと雪が
毎月登山記録スタンプ帳は今も山頂のボックスに置かれています。
12ヶ月完登の記念品及び表彰はなくなったそうです。
山麓に無量壽寺が建設中です
畑コース登山口より登ります
三草古道コース、炭焼窯跡古道コースが増えています。
無量壽寺が見えます、南門から本堂まで1.2kmもあり、壮大なお寺です。今月の二日、知人の案内で参詣してきました。
表土が薄いので人が歩く登山道は岩盤がむき出しになっており、岩の赤色が目立ちます
山頂ではぐるっと見渡せます。私たちは何故か記念写真が万歳になっています
三草山城台標
「ひょうご文化100選」
神戸新聞社 編 の本が出版(1980年発行)されているらしいがまだお目にかかっていない。
追記
図書館で見つけましたーー
ーー「ひょうご文化100選」
この本の三草山の記述を下記に紹介します
三草古道を登り、三草ルートを下山します。
尼崎の自宅より約52km、宝塚ICより中国道に乗り、ひょうご東条ICを出て県道17号~県道144号~国道372号をへて登山口の〒673-1471 兵庫県加東市山口209−110へ
立派な駐車場にトイレも完備です
分岐まで林道を行くのですが今日は193mピークを越えてゆくことにします。
このピークは登山口(標高100m)から100m足らずの登りですが下部は岩が露出していてまるで岩登りです。
193mピークへの岩、私が歩いていたので、つづく若いカップルさんもついて来た。
若い子たちは元気元気、すぐに私を追い抜いてゆく。
昭和池
三草古道コースを登り、三草コースを下山する予定です。三草古道コースは林の中を行くので殆んど展望がなく、ただ黙々と歩きます。
明石海峡大橋をクローズアップ
山頂の三草山神社、お正月の用意ができています
いくつかのピークを越えて下ってゆきます
三か所のクサリ場があります
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三草登山口より193mピークを経由、三草コースを登り鹿野コースを下ります
登山行程 : 登山口08:50~193m峰09:22~三草古道分岐09:35~277ピーク10:09~355ピーク10:34~10:55山頂11:06~11:54天狗岩12:13~233ピーク12:33~13:03炭焼窯跡13:25~13:50登山口
193ピークへの登りは(厳しい岩登り)
クサリは3か所あり
展望所のペンチ
右奥の平に見えるところが山頂
コウヤボーキ
山頂の方位版に山名が表示されています
山頂の様子
ふもとに建設中の大学
天狗岩はコースから少し入ります
4等三角点
天狗岩へ下り進むと岩のすこし手前に4等三角点があり、なおも下ると巨大な天狗岩が現れます。
巨大な天狗岩
この岩が天狗の顔に見えそうなビューポイントへは、 さらに3~40m下へ下らなければならないのであきらめた。
馬酔木が満開
80mの道無き山を下りました。
こんなとこは入らないで・・・・・
炭焼跡まで下り、やれやれ
昭和池の周回路を登山口へ
加東郡社町上三草JR加古川線社町駅神姫バス社行社営業所下車,乗換え清水行山口下車60分
バスを降りて東の山道に入って行くと,昭和池と呼ばれる溜め池の堤が見える。この堤を迂回して北へむかい,さらに東へ行くと三草山への登山道が見えてくる。登山道を約1時間ほど歩くと頂上に着く。天気のよい日には,南に播州平野・六甲山,さらには淡路島を望むこともでぎる。
三草山の麓には,播磨と京を結ぶ近道である丹波道が通り,丹波・播磨の国境の位置にあったため,ここは古来合戦の舞台となった。最も有名なのが『平家物語』にのっている三草山合戦である。
これは一の谷の合戦の前哨戦として戦われたものである。源義経を大将とする源氏の軍勢一万余騎は,京より丹波道を下り,小野原 (今田町)に陣を敷いた。これに対し平家方は,資盛・有盛兄弟らを中心に三千余騎で,三草山の麓の山口に陣を敷き,防備を固めた。
そして,1184(寿永3)年2月5日,両者の激突が起こった。義経は・平家方が戦いは明日であろうと油断しているところへ夜襲をかけ,一挙に平家方を打ち破り,その後一の谷にむかったのである. 三草山の頂上には,現在,土畢などの中世山城の跡が残されている。これがいつの時代のものかさだかでないが,『播磨鑑』に,赤松円心の5男出羽守則友が築くと出ており,南北朝期に赤松氏関係の山城が築かれたのであろう。1338(延元3)丹生寺・香下寺の衆徒ら宮方は,赤松・仁木・島津らの武家方を攻撃したので,播磨の武家方は,赤松一族を中心にして島津・広峯・後藤らの土豪がこれに対抗した。これが福田荘三草山の戦いである。
1441(嘉吉元)年の嘉吉の乱のときも,赤松方の宇野能登守国祐を大将とした五百余騎が三草山を固めたが,戦いをしないまま坂本城(姫路市)に引ぎ上げたらしい。この乱で赤松宗家が滅亡したが,のち,一族の赤松満政は播磨東3郡(明石・美嚢・加東)を領有した。1444(嘉吉4・文安元)年正月,その領地を将軍家に召しあげられたため,満政は赤松則尚らとともに挙兵し,三草山城にこもったが,但馬から出撃してきた山名持豊に敗れた。満政は一族の有馬持家を頼って逃れたが,持家の裏切りにあい討たれてしまった。
江戸時代の1742(寛保2)年,麓の三草に譜代大名の丹羽氏が転封となり,陣屋が築かれた。そこは現在の旧三草小学校の跡である。近所には,武家屋敷の面影を残す家や,足軽長屋の跡などがある。