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震災後の
芦屋ロックガーデン調査


登り歩けば、
もう落ち着いた感じ


とき: 1999年4月25日(日)

ところ: 芦屋・ロックガーデン地獄谷~高座谷

参加者: 奥野、庄司、日野、高井、川原夫妻、
中川、生信、谷関、栄田、森本夫妻
溝山夫妻


 阪神淡路大震災より4年を経過した今、芦屋ロックガーデンはどうなっているだろうか。ゲートロックやホワイトフェースはもう登るのはかなわないのだろうか。わが国アルピニズム発生の地、ロックガーデンを訪ねることとなった。

 午前9:30阪急芦屋川駅集合、こういう集合も久しぶりや。ところが驚いたね、ものすごい人や。駅前広場もすごい人、どんどん歩いていく人も途切れることのない人の列も。もう芦屋ロックガーデンはこの人の流れを見て、回復したとの印象を得た。

 わがクラブの人たちも多い。呼びかけたのは先週、雨の蓬莱峡が終ってからだが、通常のトレーニング山行より多い参加。

 木下酒店で宴会の材料を仕入れる方も多い。庄司さんは1,000円も寄付いただいて奥野さんが買い出し、「いいちこ」焼酎1升に変換。

 大谷茶屋上の神社で休憩。落石を受けた屋根は修復され、昔ながらの落ち着いたたたずまいを取り戻している。ここでアイゼンを着ける人は着け、ゼルバンを着ける人は着け、思い思いのスタイルで地獄谷へ。

 落ち着きを取り戻したか芦屋川

 初めのゲートロックは既に雑木の会の人たちがたくさん取り付いており、満杯状態。それでも間を縫って登らせていただく。正面右壁は大きく崩壊したが、傾斜の緩い従前の岩場はそのまま残されている。日野・中川、森本夫妻パーティそれぞれに登る。庄司さんは重いザックを担いで登る。(よくやるね。)

 ホワイトフェースに移って見上げれば、ほとんど震災の変化なし。やさしいノーマルルートを登ったが、しかし抜け際の崩壊した部分はこわごわ。谷関さんは難しいルートをよって登るが、彼の華麗なクライミングはすばらしいね。

 地獄谷をたどり、カエル岩、ここも震災の被害はなさそう。根性岩からA懸岩へ。ここには春山トレーニング中の人が多いが、先行した川原さん、奥野さんたちがいる。川原さんの知合いの、溝山さんの息子くん(小4)が登りたいとのことで生信、川原さんが世話を焼いている。こどもの冒険学校のようで面白い。こどもが登ったら溝山のお母さんも登りたい。

しばらくA懸岩で遊ぶ

 遠目に望む月の墓場のピラーロックは、折れて無残に転がっている。砂山を越えてB懸岩へ。ここは震災直後に訪れて完全崩壊を知ったが、すごい崩れ方やね。ボルトの付いた岩も転がっている。

 汗をかいて月の墓場の砂場を経て、中央道の尾根道に至る。見晴台から眺める大阪湾から神戸港へ広がる海が春霞にかすみ、初夏の暑さあり。弁当を広げているファミリーあり。そのお父さんも気持ちよさそうに挨拶なさる。「いい天気ですね」

 庄司さんは彼の畑のタラノ芽をしっかり観察。

 高座谷へ下り、大堰堤の上の砂場に12:30、もういい時間になってしまったので、昼食宴会とする。まだ岩場の状態を調査する方々はキャッスルを上りに行く。森本夫妻、川原夫妻、谷関・日野のみなさんは中央チムニーをはじめ、2本づつ登ったようだ。

 庄司さんのウドのてんぷらは春の味

 その他の仲間たちは早々に宴会。庄司さんはウドのてんぷらを振舞っていただき、自宅から大きな肉パックも持参されている。奥野さんはアジのひらきを焼いたり、肉を焼いたり。缶ビールや焼酎でいつの間にか深く酔っ払ってしまう。

 15:00ごろか、16:00ごろかよく覚えないが現地解散。もう少しハイキングをするの、しないの、それぞれにいろいろだったようだが、私はそのまま帰ったように思う。しかし、翌日聞くところによれば、「日野さんや溝山さんらと荒地山へ行ったよ」とのことらしい。

 そうかな、まったくそういう風景が思い浮かばない。どこをどうして帰ったのか。自宅には帰ったから、不思議やな、と思う。

 荒地山、あの辺不案内な溝山さんは、川原さんに無事帰ったとの連絡をされたそうだが、ご迷惑をおかけしたのではないか、気にかかる。



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