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97YMCC納山祭


20年の思い出語る納山祭
'97YMCC納山祭


とき: '97.12.6(土)~7(月)
ところ: 百丈河原~百丈岩
参加者: 中島S子、木下K、内田Y子、日野K、小島K、中川K、生信Y、森本T、奥野K、栄田H、竹久M子、荒木K、岡尾T、田中J子、庄司A 以上15名

6日(土)

tanaka

懸垂下降の練習をする田中J子さん


午後2時JR道場駅と、日野さんと約束していたが、機関紙[ひろば」を編集していて、大幅に遅れてしまった。午後3時、駅には日野さんと田中順子さんが首を長くしてお待ちになっていた。ごめんなさい。
日野さんは今日はマイカー、大北商店で缶ビールを1ケース買って、車に乗せていただく。「もう、木下さんたちはテント場を確保している」、とのことだったが、「いい場所はこのはなさんに先を越された」とのこと。
「じゃ、茶店の橋を渡ったすぐそばでもいいやないか」ということで、行ってみれば、結局このはな労山、なにわこぶしの会、OWCCともども、YMCCも一緒の4山岳会合同キャンプファイヤーということになったらしい。
小島さんは早くも料理をして酒を呑みつつ、あたりかまわずみんなにこれを味わって見よ、とお勧めになる。料理は生わかめの酢の物、タコの頭のぶつ切り、マグロの落としの造りの3種類。私は磯の香豊かな生わかめが最高だなと思った。

 日が落ちて寒くなった。徐々に中間たちが揃ってきて、おでんの鍋を囲んだ。粕汁もある。YMCCだけの小さな焚火もある。

第1話: 忘れがたい思い出

YMCC20周年を迎え、小島さんが自ら企画して司会を始めた「20年の思い出の1シーンを語ろう」が進行する。以下、少しばかり紹介しよう。

[小島K]

春の鹿島槍ヶ岳のことだった。
岸さんがおしっこするからあっち向いとって、とかあったが、西俣本谷から鎌尾根を登った。稜線に出るには雪庇を削って登るわけだが、一生懸命がんばって、稜線にピッケル差し込んでやっと上がったとき、目の前に残雪をかぶった剣岳がドーンと聳え立ち、あまりの美しさに呆然となっ た。岸さんも「ワッ」といったまま、しばらく動かなかった。

[森本T]

感激したことって何かな。
すべて、いろいろあったようだ。一番印象に強く残っているのは、前田Y、中川さんたちと厳冬期の滝谷を登ったときのことだ。その とき、中川さんがアイゼンをはずし、拾おうとしたが谷底深く落としてしまった。厳冬期の滝谷はベルグラ(油氷)が張り付き、チムニーでは体がクルッと回っ てしまうほど滑る。そういうところでアイゼンを失うとは何事か。とても腹立たしかった。おまけに、もう片方のアイゼンをもなくしてしまった。前田さんはな かなかすごい人で、パーティを代わってくれたりした。(中川より、どうも申し訳ありませんでした。大変ご迷惑をおかけし、お詫びのしようもありません。)
北穂を越して涸沢へ下降するときに、今度は私と西淀のA君が空中をダイビングしてしまった。たまたま、ザイルが岩に引っかかって止まった。

[生信Y]

僕は誇れる山はしていない。
思い出に残る山は、そう、今は亡き田中国秋さん、愛知の伊藤さん、田中(マ)さんと滝谷を登ったことです。田中国秋さんは地下足袋で登っていましたね。彼は自然監視員の腕章をつけて、植物をバッサバッサ採っていましたね。

[日野K]

初めて穂高に友達と行ったことが印象深いですね。
そのときは涸沢から奥穂高を登りました。今年の夏、南稜から奥穂高を登ったとき、大変疲れ、昔を思い出し穂高小屋で泊まりたいと思った。

[中島S子]

初めての上高地から涸沢ハイキングと、立山は一ノ越から剣を登ったこと。
登れるか不安だったが、小学生でも運動靴で登っているよといわれ、気をよくして登り、御来光の写真を撮ったのが思い出に残っています。

[木下K]

穂高の屏風岩も黒部の丸山を川原君たちと登ったことも印象に深い。
インドヒマラヤの5800mも登った。
しかし何よりも鹿島槍で友を亡くしたこと(36歳のとき)が悔やまれる。いつまでもこのことを引きずって歩くのはどうか、との批判もあろうが、一歩下がって、考えて見よう。

[内田Y子]

大学時代はワンゲルでキスリング担いでトレーニングしていました。
5分歩いたらしんどい、というようなこともありましたが、新聞紙25kg入れてやり、あこがれの白馬岳に登りました。
北岳では六つ星の仲間(視覚障害者)とブロッケンに感動しました。当時、「ブロッケン」という機関紙を発行していました。
今、必死です。
錫杖岳では他から声をかけられたらしいですが、記憶にありません。「すごく恐い顔していた」とのことですが、どんな顔をしてたんでしょう。

[栄田H]

感動の思い出はありません。
でも、2年前、槍の肩の小屋から槍平へ下降するとき、視界悪く飛騨沢に入り込んでしまった。腰までのラッセルで雪崩を警戒しながらの下降だった。

[奥野K]

その昔、北鎌尾根をのり子さん(今の奥様)とたどったときのことが印象に深い。

[中川K]

やはり、最近のことが思い出としては大きい。
太閤道きのこハイキングで小川K代さんが、大きなクリタケを手に取ってにっこりしている顔がよかったな。

 その後、次々と第2、第3の思い出話に花が咲いた。
 中島さんは翌日、兵庫労山主催の六甲全山縦走に参加のため、深夜帰宅なさった。生信先生もハーフマラソンがあって深夜だったか、翌朝だったか、お帰りになった。
 数日前、小島さんは仕事で参加できないとおっしゃっていたが、今日は新築の自宅の排水溝(だったか?詳しくは覚えていないが)の位置で立会いが必要のため、時間が中途半端になったとのことで、ご参加いただいた。翌日は仕事の予定。

7日(日)

 寒い朝だった。再び焚火を始め、おでんの残り物をつつきながら、酒をいただく。うどんも作って腹ごしらえ。
森本、栄田さんたちはアイゼン着けてのクライミング・トレーニング。2週間後の八ヶ岳登攀のため。日野さんも一緒に登りに行かれた。
後に残った中間たちは、残り酒をいただいて世間話。


第2話: 偵察の懸垂下降

 9時ごろ、中川は先般富山で習った救助技術の一部、50mロープ(最近は50mを使用)1本より長い距離を偵察する懸垂下降の方法について河原に下りる ところの坂道で披露した。いわゆる"ロープの結び目をスムーズに通過する懸垂下降"の方法である。想定される状況としては、60m下方の垂壁ないし急斜面 に負傷者がおり、急いで偵察に下りる必要がある場合。
 2つの方法(懸垂環・下降器を回収する方法、回収しない方法)のうち処理の速い、懸垂環を回収しないでサッと下りる方法を演技した。本来バックアップを とって作業するが、技術を覚えていただくために、バックアップなしで技術の骨だけを説明した。(「ひろば12月号」の大見氏の報告参照)
 そしたら、小島さんからこっぴどく、その技術をこき下ろされてしまった。①腰に付けるスリングはすべてループしているはず。固く結ばれたスリングの結びを解くところからやってくれ。
 (これはナイフで切れば済むことだが、いまは単なるデモンストレーションだから切らない)
②半マストの仮固定による懸垂下降は基本的に危険。それより、安定したプルージックで十分、懸垂環の交換(上ロープからはずし下ロープにセット)は可能。
 中川は、初めにバックアップから説明すればよかったとは思ったが(本来の救助技術はバックアップから入っていく)、ついつい頑固頭を振り回し、これがい いの悪いの、そんなんでできるわけない、とかなんとか、議論の応酬いろいろ。そんなんやったら、「垂壁でやってみろ」、「よし、やってみせたろ」というこ とになり、下部岩壁に向かった。
 「下部岩壁はOWCCさんたちで混んでるよ」との畠井Oさん(なにわこぶしの会)の忠告もあって、やぐらでの大阪府岳連の確保訓練の横で小島さんがロー プをセット。「懸垂下降をする」とのふれこみに、なにわこぶしの会の方5人が見学に見え、畠井さんにエイト環を借りる。ついでにバックアップ用のロープ (これはまったくのサラピン)までお借りする。
 そこで、いきなり先刻の結論を得る作業はできる雰囲気ではないので、「懸垂下降の初心者教育」となった。受講生は田中J子さん。小島さんは熱心に初心者のための懸垂下降を指導。彼女も懸垂は初めてだったので、こわごわながら静かに上手に学習、実践した。
 こぶしの会のみなさんも、少しやってみたかったようだが、昼飯の用意があって河原に帰って行かれた。百丈岩から下りてきた日野さんが小島コーチの指導を受け、1回懸垂下降をトライ。
 まあ、今日はこれぐらいにしておいたらいいものを、「やっぱりやるか」との小島さんの問いに、「うん、やろう」と応える中川。
 では、まず小島さんがプルージック架け替えによるロープ接続部の通過を実演する。小島さんは懸垂下降し、接続部に至って、なかなか思うようにいかず、結局7分30秒かかってしまった。
 中川は、ムンターヒッチ(半マスト)・仮固定で10秒ぐらいか、アッという間に通過。(都岳連の渡辺さんはほんの数秒で通過していた)
 岩場での事故は、生存救出のためにはそこにいる者が、とりわけパーティ内処理(セルフレスキュー)が基本である。救助隊の出動を要請していては死んでしまう確立が高い。
 小島さんは「いい技術だ」と認められたが、一般に普及するのは止めて欲しいとおっしゃる。勿論、これは救助技術であって登攀技術ではないが、クライマー一般もセルフレスキューの技術を習得する必要があると思うが、みなさんのご意見を拝聴したい。

懸垂下降の練習をする田中J子さん

 「久々に意見をたたかわせた」と小島さんもある意味で気分せいせいとしたようで、いずれかが傷ついた悪い議論ではなかったと私もほっとしている。とはい え、中川はいいトシして、頑固な主張を変えない。これはよくない。もっと、大らかに、「なるほど、それはいい考えだ」「私の考えよりあなたの考えの方が素 敵だ」とか、行動の適否より、仲間のいいところを評価する方向で動いていかなければならないと思う。人間ができていないと思う。

1997.12.16 記: 中川 好治


その後、川原K君は、小島さんのプルージック方法でも、十分可能だ、との考え方を示された。より優れた方法が求められ、洗練されていくことを望んでやまない。


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