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五色ヶ原 (立山~薬師)


知人の追想


奥山賛歌   立花悟

 今日は本当に疲れた。室堂からの五色ケ原を甘く見た訳ではなく、山男にあるまじき、みくりが池泊まりの朝湯に浸かっての出発。
露の絹毛が光るチングルマの中を登るまでは良かったものの、室堂山から浄土山へ取り付いての岩石の急登に汗をしぼられ、竜王-鬼-獅子の名にふさわしい鎖や梯子、ロープと、三十余年ぶりにやって来た老兵がみっちり試される初日となった。

 硫黄の匂う風がガスを切り裂いてカルデラの断層の凄さを見せ、グッと気を引き締めてくれる。つかんだハイマツの感触は久しぶりに会った彼女の手の平のように優しい。「着たり脱いだり人間て面倒やね!」って目付きのライチョウにも会うことができた。

 たわわな草花の実とまだ残っている夏の花たち、色付き始めたイワイチョウや気の早い草紅葉の淡いグラデーション。その中に鮮やかなイワギキョウが織り込まれている五色ケ原。何といってもテントが一つもないのがいい。満たされた一日の疲れである。

 私の働く剣山頂上ヒュッテの風呂は、四国で一番高いところにあるのが自慢だが、五色ケ原山荘も大きなステンレスの浴槽にたっぷりのお湯で、汗まみれの身体には最高のご馳走。缶ビールを握って外に出ると、暮れなずむ彼方に槍の穂先、そして笠のかたちも確かめることができた。

 昨年、四国の剣山の縦走をやったよという福岡の谷本君と東京のスーパー勤務の平岡さんと六畳に三人、やっぱり九月はゆったり泊まれてよろしい。三人とも薬師岳への縦走であるが、山の楽しみはそれぞれ。お互い「山の変人」同士の話は尽きることがない。

 すばらしい銀河を見たのに、針ノ木岳をシルエットに仕立てた朝焼けの雲はみるみる厚く重なり合ってきた。谷本君は自炊をして宿の朝食前に発っていった。平岡さんはレインウエアに身を固め、降られるもよしゆっくり行きますのでと、ひょうひょうと山旅を楽しむ全天候型。私はスケッチブックを取り出し、途中、鳶山からの五色ケ原池溏、針ノ木岳を描いて急ぐ。

 越中沢乗越へ下る道で黒い饅頭のような糞を発見! 思わずあたりを見回す。それから急に足が速くなる自分に気づく。そして、しばらくハイマツの中に動く奴かおり、身がすくんだ。相手もガサガサっと、離れて静止。凝視すると猿の体形である。ふっと息を吐き、いつかテレビで見た槍の東鎌尾根付近まで来てハイマツの実をあさるサルを思い出して、ウンウンとうなずく。けれどもあれは間違いなくクマのものであるから……。

 越中沢岳山頂に着き、薬師の壮大な姿勢に圧倒され立ち尽くした。そして、スケッチブックを見開きに広げて感受するままに、隈取り筆でじかに書きなぐる。一息入れ、振り返ると立山方面もいい。コースー番の眺めであろうか、心が満足すると腹が減ってくる。そんなところへ平岡さんが雨具姿のままで現れた。持参のものを互いに食べ合い、後から行きますという披を置いて下りについた。

 雲の切れたスゴの頭に辿り着いたとき、乗越小屋近くを行く谷本君が黄色い虫のように動くのが見えた。やはりいい時間に着くなと彼に感心しながら砂礫の急斜面を雨に降られて下る。小屋前に若い女性がテントを張っている。「天気も悪いしたいへんだね」と声をかけると、なんのなんの、雲ノ平、黒部五郎岳と遊んで四目目。「ぐっと荷も軽くなりました」の返事、いい腕のやけ具合である。

 この奥山に登山者を迎えてくれるスゴ乗越小屋は、これぞにっぼんの山小屋というたたずまい。「ちょっと降られましたね」と谷本君が出てきた。「水ホース修理のため留守にします。水は節約して使ってください。飲み物は後払いで結構ですのでお取り下さい。食堂か二階でおくつろぎください」と黒板にあり、谷本君が小屋番のように教えてくれる。

 外の水舟から缶ビールを一本持ってきて、ストーブのある食堂で彼と今日のコースを語り合う。中年の夫婦が薬師の方から着き、平岡さんも到着。その時ひとりの男が「水を一杯」と外の蛇口から飲んで、すぐさま薬師の方へ飛ぶように消えた。今日中に太郎小屋まで行くとのことらしい。「えっ」と時計を見たり指を折ったりしてみんな顔を見合わせ、どんな奴なんだろうと首をかしげる。時々雷鳴も聞こえる、そんなところへ、小屋番の二人がずぶ濡れで戻ってきた。

 「すみません」を連発しながら、すぐに夕食の準備にかかってくれた。もう一人富山の若い人が着いて六人。大きなテープルーつで話が弾む。それにしてもさっきの男、後立山の冷池小屋の人で今夜太郎平小屋で会合があるらしいとのこと。堂堂からか、黒部ダムからか分からないが、とんだり跳ねたりぷら下がったりの、この縦走路を、昼夜雨の中を考えるとき、昔から霊峰にはよく仙人の話はあるが、役小角現代版としか思えない。そんな山男がいるのだなと、この奥山のスゴ乗越ならではの話にみんな納得しつつあった。

 翌朝、富山への出張ついでに休みを取っていた谷本君は飛行機の予約があるので祈立まで行きたいと、暗いうちに雨の中を、発っていった。テントの娘は軽くなったという荷を背負ってみせたが、けっこう詰まっている。
「今日は五色までだしね」と返事は軽い。私はラジオの予報から一日休むことに決めていたが、みんなが発つのを見送り、青空がのぞいたりすると出発しなかったことを悔いる。

 注意報通りカミナリさまもうろつくし、落雷の遭難碑も見ているし、急ぐ旅でもないし……。食堂の雑巾がけが始まったのでトイレヘ立つ。ウイスキーの空瓶が錘の半自動の扉。なんとも粋である。ストーブのある食堂では、マスターが毛布を繕っている。テーブルには、小屋の歴史を見守ってきたらしい針箱が広げてある。ひとつひとつが若い頃のキスリングの山旅の想い出へつながる小屋である。

 私は待ってきている『山のパンセ』を聞く。が、雨が止むと外が気になる。休んだ一日の時間はなかなか過ぎない。本棚にあった雑記帳をめくり、薬師の稜線で滑落した妻への追悼文やスゴの名称の由来やらを読む。秋雨の奥山の時間はゆったりと流れていった。

 翌朝は小雨の中を出たが、少しずつ雲が抜けて、ホシガラスが迎えに来てくれた間山でやっと雨具を脱ぐことが出来た。雨上がりの山並みは最も美しい。薬師岳へ一日待ってよかった。有峰湖と太郎兵衛平へ広がりのびる雄大なスロープ、落ち着いた初秋の彩り。能登も富山平野も、振り返れば五色ケ原、立山が雲を脱いでゆく。
北アルプスでもここでしか出会うことのできないスケールの眺望である。大地から溢れてくるものを五感で受けとめながら薬師岳へ歩く。雄大なほどに、見えていてもなかなか着かない。金作谷カールを見下ろすところまで来て、やっと来たなという感じが湧いてきた。

 薬師如来に無事縦走の御礼。リュックを投げ出し大の字に寝て、山頂の秋風を吸う。雲があるから空の色の濃さが分かるんだなーなんて思っていると、突然大きな外国人の顔。その笑顔は雨のスゴ乗越でテントを張ったアムステルダムの男。ホリデー、ヤリ、ホダカしか分からない。あとはニコッとするだけである。それでもお菓子を交換。おかげで祠の前で写真に納まることができた。
Have a nice d a y !

 太郎平小屋は九月でも人が多い。
みんな一流登山家に見える雨支度で、スゴ乗越小屋からひょろひょろ着いた私は気恥ずかしくなる。隠れないうちにと薬師岳を描く。声をかけられ覗き込まれるが、私の心は昨日読んだ田部重治の「太郎兵衛平讃」の中にいる。

 ーー私は何となく永遠と云うものの一角に足を踏み入れたやうな歓喜を感じたのであるー一

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