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近畿自然歩道 金鶏の


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2012年08月29日の記録へ


2007年08月26日(日)

 晴れ 気温36℃

西光寺山 標高 712m 洞ヶ山 標高 652m
登山口標高 234m
山頂に三等三角点あり、往復 3時間くらい

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サギソウ(本荘源戸池 西光寺池)

kosagi

kosagi

コサギの画像は「枚岡の野鳥」様よりご提供いただきました

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金鶏伝説の説明板がある東屋

 サギソウは今田町の町花。

 サギソウ自生地は全国でも珍しいそうで、サギソウの保護などのため、全国サギソウシンポジュームが開催されており1993年には今田町で開催された。

 東京に住む愛好家が病気になり管理が出来なくなったので保護に熱心な今田町に寄贈(球根2000株)されたものが薬師温泉に展示されていた。ちょうど満開の花の見ごろであった。

近畿自然歩道の道標  奥ノ院三宝荒神社

山頂より西(洞ヶ山)を見る

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山頂より東
(左奥より三嶽、白髪岳、松尾山、とんがり山、西寺山)

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洞ヶ山頂に建つ洞ケ山西光寺諸死精霊供養碑
薬師温泉の足湯

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薬師温泉ぬくもりの湯より
右 西光寺山 左 洞ヶ山

薬師温泉の駐車場は満車、15分ほど待つ。人気の日帰り温泉だよ

山よりも サギソウに魅せられ

 温泉に惹かれ 猛暑の山行

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2012年08月29日(水)

  曇り 気温32℃

yama

graf

登山口 10:50 ~ 山頂昼食 12:00/12:35 ~ 13:20 登山口 
約3.3km 登り 70分 下り 45分

kanban

本荘源戸池の横に立つ近畿自然歩道の案内道標

enter

寺谷登山口(ここまで車で入れるが無舗装の狭い道です、本荘源戸池の墓地駐車場に駐車させてもらいましょう)

kinoko kuri

タマシロオニタケ(猛毒菌)
山栗が豊作です(山頂付近にたくさん)

tizu

 炭焼き小屋から山頂へほぼ直登の山道なので傾斜は非常に強い。
しかも山頂直下の洞ヶ山分岐までゆるやかなところは一切なしの登りです。
 今日は台風15号が沖縄を通過した雲が本土へかかり曇り空、風がすずしくさわやかです。
それでも、つよい傾斜の山道を登れば体中が汗でズクズクです。

santyo

山頂に東屋ができていました。

sankaku somen

三等三角点  よく冷えたお素麺がおいしい

 気温が少し低いのか汗びっしょりの身体が食事中に冷えると冷たく寒さを感じます。
裸になってシャツの汗を絞れば気持ち良いのだが。。。。。。。

sagiso

 

kosagi

sagiso

kosagi

sagiso

kosagi

sagiso

かわいいです

sagiso

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サギソウの自生地調査に参加して

ここより引用

木村なほ

 さる2000年8月12日 ラン・ネットワークのサギソウ自生地調査の一行に参加させていただいた。
 現地は福島県会津C地区である。

 ことのほか猛暑だった今年の夏とはいいながら、猪苗代湖からほど近いその湿地には爽やかな風が吹き、何と、まぎれもないサギソウの花が点々と白く咲いているではないか。土地の人にしてみれば珍しくもない、というか昔から咲いていたサギソウが毎年夏が来れば咲くという一 ただそれだけのことなのだろうが、今こうして自生地が残っていたということに私は胸がいっぱい!感無量であった。

  なぜ、それほどの喜びだったかといえば過去30年間のサギソウへの想い入れの数数がよみがえり、一 私の時代はもう終わったのだと思っていたけれど、原野から失われゆく植物を守ろうとした人達の今までの経緯をやっぱりひと言書き残しておきたくもなるのです。
今でこそ野生生物絶滅危慎種とか何とか世の中の動きも騒騒しいが、そんな言葉すら聞かなかった昭和30年代後半にサギソウを守ろうと提唱したのが東京山草会会員の故山田菊雄氏であった。(当時・都立神代植物園在職)

  その提唱に応えるように全国的に千人余が会員となって「サギソウ保育会」が結束し、滅び行かんとする自生地の保護と栽培による増殖に向けて数数の活動が行われた。
まず、栽培法の研究、球根の配布(植物園に有能な人がいて全会員への配布球を増殖)、自生地の調査、自生地復元のお手伝い、全国大会なども行われ、サギソウ愛好家も各地に増大した。

  幸いなことに、サギソウは誰からも愛され一般の人人にも栽培が可能であったため、急速に人気は高まり、広くみんなの花として市場にも出回るようになっていた。
ところがその一方で残り少ない自生地の乱獲もまた増大し、さまざまな問題があったことも否めない。そうした中で太っ腹で磊落な山田氏はあれこれの摩擦も明るく善処しながら保護運動に邁進した。

  そんなこんなで全国的に拡がったサギソウは昭和41年、姫路市の市の花に、続いて43年東京都世田谷区では区の花に制定した。そして平成10年までには全国で8ヶ所の市区町村のシンボルの花となっている。 

  半世紀前までは殆どの人が名も知らなかった小さなひとつの野の花が、これほどまでにみんなの花になったのはサギソウ以外には例の無いことと思われる。
更にそれぞれの市区町村では、行政の中でサギソウの普及をはかり、たとえば自治体の主催するサギソウの展示会や、球根の無料配布、実生法(寒天培養)の研究など、町をあげて、村をあげての活動となっていった。

  さて、そうした気運の中で、ことに姫路市は熱が入り、平成3年サギソウシンポジウムが市の主催で開かれた。会場は市の手柄山植物園でサギソウの展示で埋められた大盛会であった。これに続いて平成5年に兵庫県今田町で、平成7年栃木県河内町、平成9年東京都世田谷区、平成11年には愛知県作手村で、と今までに5回に及ぶ大会が開催されている。 

  野の花サギソウのシンポジウムとは、どんな催しかと言えば、まずそれぞれの自治体の行政の中で、緑の課とか、自然環境保護課とかが担当する。
会場にはサギソウの鉢の展示をはじめ、写真、研究資料などサギソウ関連の多くの作品が並び、その地区の取り組みもすばらしい。
参加するには、各自治体の代表者、ランの学識経験者、サギソウ愛好の趣味家、実生研究家、地域の人人など、など、なつかしい顔や同士が各地から続続と集合する。

  行事の内容はと言えば、まず各自治体代表の挨拶からはじまり、メインとなる基調講演に続く。次に数人のパネラーさんが壇上に出てパネルディスカッションが活発にすすみ、続いて会場全員との質疑応答、地方によっては地域名物のアトラクションなども会を盛り上げる。次に二部として手作りの懇親会で旧交を温める。2日間にわたる時は野外見学として自生地(残されている処では)の観察、植栽園や見本園、更に学校関係者の実生研究室や実生苗からの栽培場などをバスでまわり、その自治体でいかにサギソウの普及にとりくんでいるかという実情を見せてくださる。

  それに加えて更に嬉しいのは、それぞれのシンポジウムのテーマとして「サギソウと人人との共生できる自然」を謳っていることだ。勿論地域の自然保護団体も協力しての行事である。これはサギソウをかついでの町おこし、村おこしとも言えそうだが、その意義は深いと私は思う。
ただここで残念なことに、その5回目のシンポジウムの次を引受ける自治体が今のところ決まらない。

  世の中が低調だからどこの自治体もそれだけの予算がとれないという。
もっともシンポジウムへの熱意は変わることなく、サギソウが危ぶまれることももうないだろうが、このすばらしい純白の野生ランが、日本の原産であり、原種である今の姿を21世紀に伝えるためにも今残されている自生地は何としても守りたいし、その責任もあると思う。
 幸いにも今、ランネットワークのような心ある方達が、こうして湊町の自生地の保全や自生状況に近い植栽地(見本園)を作ろうとされていることに私は惜しみない拍手を送りたいし、この力強いメンバーなら必ずや成功させてくださると思う。
ご専門家、信州大学の井上健先生を旗頭に、郷土愛にもえている地元福島の中野憲氏、その実現に生涯の夢をかける安部孝男氏をはじめ、何といつても実生技術にかけて名実共に精鋭のランネットワークの皆様なのだからこれ以上のことはないと言えるのではないだろうか。
 サギソウ保育会の生き残りの私が、今何を言えるものでもないが、東京山草会の後輩がたを中心に、こんな形で活動を続けていられろことが、あの世に伝わるとしたら山田菊雄先輩はどんなにか喜ばれることだろう。
 猪苗代湖畔の岸辺の宿で一夜を語り、 (石黒ゆり子様と私女性2人はとなりの小部屋)翌日湿原の調査を終えて、お名ごり惜しく解散のとき、来年の総会は佐渡、「佐渡でまたお逢いしましょう」と私が言えば「このM町でサギソウシンポジウムのできる日が来るといいですね」と言われた阿部さんの笑顔が忘れられないのです。

サギソウをシンボルフラワーに指定している自治体(北から)
  都道府県名 市区町村名
 ①  福島県 猪苗代町(いなわしろまち)       
 ② 福島県 浅川町(あさかわまち)
 ③ 栃木県 河内町(かわちまち)
 ④ 東京都 世田谷区(せたがやく)
 ⑤ 愛知県 作手村(つくでむら)
 ⑥ 兵庫県 今田町(こんだちょう)
 ⑦ 兵庫県 姫路市(ひめじし)
 ⑧ 徳島県 池田町(いけだちょう)
兵庫県今田町は1999年4月1日合併により篠山市
となり、市の花に指定されず、ササユリとなりました。

金鶏民話(今田町文化財調査報告)より引用

 むかしむかし、西光寺のてっぺんに、えらいお上人様が住んでおられました。お上人様は諸国を回って苦しい修行をつみ、医療や農法を勉強しておられましたので、山から里におりてきては、ふもとのお百姓さんたちに作物の作り方を教えたり、病気で困っている人々を治したり、また人々を集めてありがたいお話をされていました。お百姓さんたちは、この上人様の徳を慕って田んぼでとれた初物を持っていったり、作りたてのぼたもちをお供えしたり色々とお上人様のお世話をしていました。

 お上人様は、山の上で粗末な庵を建てて住んでおられましたが、その中でひときり目立つ立派な木の箱にむかって一心にお祈りをされていました。村人たちが不思議に思って「お上人様、毎朝その箱を拝んでおられますが、その中に何が入っているのですか」とたずねました。上人様は「この箱の中には村が飢饉になったり疫病におそわれたりして村中が滅んでしまうような大変なときに、きっと村を救ってくれるようなものが入っている。私は、そんなことが起こらないように毎日お祈りをしているのじゃ。しかし、この箱の中を見ると、きっと悪い心を起こすものが出てくるので決して箱の中を見てはならぬ」と申されました。

 しかし、見るなといわれると見たいのが入情でございます。ある日、お上人様が留守の間に村の元気な若衆が、そっと木箱のふたを開けました。なんと中には金無垢の鶏がまばゆい光を放っているではありませんか。このことを村人の口から口へ伝わって「お上人様の庵には金の鶏がいるそうな」とたいそう評判になりました。この村を通りかかった旅人がこの話を耳にし、よくない考えを起こしました。

 お上人様が寝静まった真夜中に庵に忍び込み、そっと箱に手をかけました。するとどうでしょう。突然、昼をあだむくような稲光とともに大きな雷鳴がとどろき、悪い旅人は深い谷間に転げ落ちてしまいました。お上人様は何事もなかったようにすやすやと寝入っておられました。

 この事があって2、3日たったある日、お上人様は山からおりて村人を集めて申されました。「わたしがしてはならぬと申したのに背いた者があって、悲しいことが起こってしまった。わしは、今日この地を去ってまた修行の旅にでるが、宝物はこの山中に残しておく。皆が力を合わせ一所懸命に働いておればきっと宝物が役に立つときが来るであろう。」そうしてお上人様は、どこかへともなく旅立っていかれました。

 それからずっと後にこの山の上に立派なお寺が建立されました。金鶏の話は口から口ヘと伝わって『金鶏山西光寺』と名付けられました。いまでも西光寺山の別名を『金鶏山』といい、お寺の跡が残っています。そうして以来、正月が明けると暗闇の西光寺山のどこかで、金鶏が四方に向かって金色の光を放つと言い伝えられていますが、まだそれを見た人はいないそうです。

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