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美濃富士(烏帽子山) 2005年3 月31日 晴れ 気温13℃ 強風
県道139号線沿い、湯葉神社より雄大な美濃富士の山容 上石津町教育委員会が発行した冊子「道をたずねて」によると・・・ 時盆地に入ると真正面に一きわ高く悠然と聳える山が目につく。 ★ 冊子内容を見るにはここをクリックして下さい ★
行程 : 北尾根コース、鉄塔道を登る @登山口(10:30)〜A鉄塔(11:05)〜Bシャクナゲ群生(11:50)〜(12:30)D山頂(13:30)〜(13:40)C好展望地(13:50)〜@登山口(14:55)・・・・E三等三角点
アクセス : 名神関が原IC 〜 国道365 〜 県道139 〜 時山橋登山口
付近のちずは
熊坂長範屋敷と流れ七社の縁起 ★ もどる ★ 上石津町の細野の地、三重、滋賀、岐阜三県の分水嶺をなすところに標高865メートルの山がある。その姿は烏帽子のようにも見え、美濃富士の名もあり秀麗そのものである。この頂上付近の段地や岩窟を「長範屋敷」といって、長範一族がここにたむろし、時刻を定めて山を降り旅人を襲い、金や品物を奪ったという。こんなことからこの地を「時村」と、呼ぶようになった……と伝えている。 さてこのようにして奪った財宝は岩窟の倉屋敷に貯え、これを貧しい農民たちにおしげもなく分け与えたという、この熊坂長範は、「義経勲功記」によると、「承安三年(1173)3月義経16才奥州下向の際、熊坂長範とて天下に隠れなき強盗あり、諸国のアプレ者共集め押入り強盗を以て事としけるが、此程美濃尾張の間に俳回し金銀を奪い財宝を掠領す」とあり、「謡曲熊坂」には、「長範というのは泥棒ではあるが、何百人もの手下を率きいている有名な総大将で、正に大将軍の風格があった」と、うたっている。 時・堂之上の湯葉神社の奉納流七社の縁起板(文化十一年秋奉納)によると、「治承2年(1178)成年熊坂長範淡路国葦原岳の麓、岩屋大明神の八社の御神体を盗みこの烏帽子岳の隠家宮の平に祀ったがこの霊像は、夜な夜な怪光を放ったので驚いて川上に投じた」とある、「義経勲功記」による承安3年より「緑記板」による治承2年は、その間五年を経ているのみであるし、長範が豪商吉次を襲い牛若丸に殺されたという赤坂の宿と、この熊坂山とは近く、隠れ住むには絶好の場所といえる。 さて、怪光に驚き川に投じた神々は、一社は土民がこれを拾い上げ、細野の地、神明堂に奉納、その後水害を受けたので現在地に遷座した……という。遊波神社と昔は書かれ、時の里の郷社現在は湯葉神社で祭神は一之宮遊波大明神であると伝える。別の神々は更に流れて二之宮流彦大明神として多良の惣社に(現在の宮、大神神社)、三之宮は長彦大明神として一之瀬で拾い上げられ惣社に、四之宮麦彦大明神は流れ流れて萩原に祀られ、五之宮は牧田惣社麦房大明神として、六之宮七頭大明神は、伊勢の国の住人に拾われて三重県の川合柑惣社に、そして七之宮は篠塚大明神として養老町橋爪にと、牧田川筋に拾い上げられ祀られている。正に流れる神々の典型といえる。 長範の住んでいたと伝える熊坂山に登ると頂上附近には、高山植物の「しゃくなげ」が群生し数百年を経たと思われる老樹が岩壁より枝を差し出し春になると見事な花をつける。昭和54年12月このあたり一帯は自然環境保全地域として指定された。ここより東南に少し下ったあたりは、ゆるやかな斜面をなし、むかしは背丈を越す熊笹が生い繁っていた。このあたりを長範屋敷と呼び御神屋敷址・御宮ノ平屋敷址・倉屋敷址・射場址・馬場址・の名が残り、この屋敷のすぐ下には、具足かぶと岩・刀研岩・腰掛岩・半鐘岩と呼ばれる奇岩があり、つき立った屏風岩や立て岩、武将がすっくと立ったかと思われる、よろい岩などの偉容はすばらしい。かぶと岩を動かすと腹が痛くなるといい伝えられ、その下には財宝がかくされているという。 尚、物見松、手植松というのがあり、盗品を上げおろししたという、「熊坂荷付」という名も残っている。また地元では長範を義賊として親しみ長範は盗んだ品物をいつも貧しい家々へそっと投げ込んで行った、とか、はては馬に乗って″もらい風呂″にきたなど、人間長範の面目を偲ばせる話しが今もって伝えられている。寛政10年になる「時八景」の一つ″熊坂の暮雪″には 「熊坂や、名も、ものすごき、暮の雪」 とあり、「聞説長範数斗酒」と、その酒豪振りも、詩歌にうたいつがれている。 ★ もどる ★
参考:大垣市・上石津町・墨俣町 2005年2月21日、大垣市役所で西濃圏域1市2町合併協議会が開催され、全ての合併協定項目の協議が終了致し、続いて、2月25日に1市2町合併の調印式が行われた。
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