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高瀬富士(爺神山)

標高 227m


2003年03月31日(月)
  晴れ 気温18℃

讃岐の富士パート4

 讃岐七富士のひとつ爺神山(高瀬富士)に登る。
爺神は『とかみ』と読む。
かっては香川県三豊郡は高瀬町比地中にそびえていた標高は227mのそれはそれは山容の美しいふるさとの富士でした。

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高瀬町歌の歌詞2番には

『姿きよらな 爺神山

みどりかがやく 岩瀬池

四季の絵巻を 織りなして

はてなく伸びる わが町よ

ああ虹かかる 高瀬町』

と歌い込まれている。

 比地小学校校歌の『爺神の山を 東に七宝 西に見るところ 古き歴史と伝統に』
高瀬高等学校の『爺神の山に直さす光 見よ強き』など校歌の歌詞にも見えるほど愛され親しまれた高瀬一の里山であった。

 讃岐の富士パート3で紹介した「江甫山」も採石で痛々しい山肌を見せていたが、この爺神山は痛々しいどころか、もう瀕死の状態である。
写真をご覧下さい、山が半分無くなっている姿を。
この写真は高瀬駅の南にある国市池(くにちいけ)越しに撮った。

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爺神山と母神山

 山名の由来はイザナギノミコト(男神)が降臨された(伝説)ところで「トトカミ山」が転じて「トカミ山」と呼ばれたという。観音寺市の「母神山」(はがみやま)と夫婦の山となっている。

爺神山城

 頂上に詫間弾正の城があったといわれているが、井戸の跡ともいわれている「かねほり場」以外にその形跡はない。

鈴石(国指定天然記念物)

 イザナミノミコトが母神山(はがみやま)から鈴を振り鳴らしてイザナギノミコトの住む爺神山に通い来た時に忘れた鈴が土に埋もれて鈴石(大きさは鶏の卵大で振れば音のする珍しい石)になったという伝説がある。
爺神山はこの鈴石が取れることでも有名である。

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四等三角点

登山道は大師堂から

 登山道を知らない私は今日も高瀬町役場に直行して登山ルートをお聞きした。

 舗装された道を少し登ると、金毘羅宮がある。(中腹より少し下)その裏に爺神山四等三角点標高71.53mの立派な石柱がある。山麓に三角点があるのもめずらしい。
(採石で山が無くなるので山頂にあった石柱をここに移したのだろうか?はたまた国土地理院のものではないのか?)
 舗装道は金毘羅宮の裏からほぼ水平に山をぐるっと一周しており、道脇にミニ四国霊場があり石仏が置かれている。(江戸中期ころできたもので一周30分くらいで巡る事が可能)
採石されて山が半分無くなっているのはこの周遊道から上部です。

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里山には登山道はいくつもあるのが普通ですが

 「木の根っこ、笹や草をつかみ、足場を探しながら、先に進む友の落とす小石がパラパラと頭に落ちるのを避けながら登った」という記録をインターネットで読んだ事がある爺神山だ。
大師堂からのきれいな道ではなくどこを登ったのだろうとの考えが頭をよぎる。

 石仏を眺めながら水平道を大師堂のある西方向へ向かうと細い道が見つかる。
よしこの道だ
ここを登ろうと落ち葉に滑りながら歩を進めた。
 ところが
少し登るとすぐ道は無くなりひどく急な斜面に黄と黒のトラロープが木に結ばれて上へと頂上まで続いている。

 まさにインターネットで読んだ通りの道なき斜面を私も小枝などにすがってよじ登る。
自分自身でも苦労する性格にあきれているのだが。
20分後、採石で東半分が切り取られた山頂に立つ。

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 頂上の切り立った崖に立ち眺める高瀬の田園と町並み、川が流れ、おむすび山がいくつも見えるその後ろには阿讃山脈が連なっていた。

 下山は安全な大師道をまたしても避け、採石後の崖につけられた危険な岩場を下る。
ルートは赤と青のペンキで矢印がつけられていた。
藪こぎ、岩登りに慣れていない方は安全な大師道を歩かれるようにしましょう。
どの道を進んでも登下山とも15~20分でしょう。

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2001年9月2日付 四国新聞より転載

 気温30度を超す真夏日が続いた今年の夏。讃岐七富士の一つ「爺神山」の南にある海洋センターは連日、プールを楽しむ家族連れでにぎわっていた。国市池では中学生がカヌーやヨットに興じ、その北側では高瀬高校カヌー部の部員たちが練習に励んでいた。

  山の名の由来は神代にイザナギの命が降臨されたところで「トトカミ山」を略し、「爺神山」と呼んだという。
観音寺市池之尻町の母神山とともに夫婦の山としても知られている。
  高瀬町比地中の春日神社宮司、斎藤芳樹さん(84)によれば、’中腹にある金比羅神社の祭りは戦前、近郷随一の盛大さで男女の御頭人も出て夜は花火と大変にぎやかだったと、時の移り変わ
りを懐かしそうに話す。

   この山は鈴石でも有名で、戦後の一時期、鈴石探しがブームになり、夢中で探した思い出があるという。斉藤さん所有の鈴石を見ると、大きさは鶏卵大で色は乳白色に近い。耳のそばで振ると「シャリシャリ」と優しい音がする。形や大きさで[カラカラ」 「シャンシャシ」と微妙に音色が異なるのだそうだ。

  登山口は大師堂手前から右に入る。
勾配のきいたジグザグ道を足元に気を配りながらゆっくり登る。この時期、雑木林が生い茂る。休まずに歩いて二十五分ほどで山頂だ。二段に削り取られた平地が見られる山頂は「ここが詫間弾正の居城だったのか」と疑いたくなるほど狭く、名残の石垣や干ばつのとき、大火を焚いて雨乞いをしたという、のろし台の遺構が残っている。
  中腹には江戸中期ごろに設けられたミニ四国霊揚があり、山を一周するように石仏が安置されている。近くの人たちが信仰と親ぼく、健康づくりを兼ね、毎朝お参りを欠かさない。今もお地蔵さんには色とりどりの前掛けが掛けてあり、言い伝えによると子安地蔵の前掛けをもらってくれば、子供を授かるとか。子供が生まれると真新しい前掛けを作り、そっと掛けに来る。 昨年四月、大師道を歩く会(石井竹義代表)が発足し、会員の奉仕活動で石仏修理、道路整備、前掛けの掛け替えなどを行っている。

   十七年間、ボランティア活動を続けている「鈴石会」代表の湯□寛子さん(77)は、お話おばあちゃんとしても知られる存在。里に伝わる長話を紙芝居にして子供たちに紹介する語り部だ。 「戦国服国時代、詫間弾正が築いた山城があった。長泉我部軍が攻めて来たとき、弾正は降伏せず、少ない兵と共に西麗で激戦中、馬の足が瓜のつるにとられその塔で討ち死にした。七夕の日だったので一族はその後、この日にはつるに実った物は食べない」という「弾正の瓜のつる」の話を、二の日も湯口さんの楽しい語りで聞くことができた。

  爺神山は、見た目にも美しい形をしていて、かつては「高瀬富士」と呼ばれていた。昭和三十五年ごろから採石が始まり、山肌はざっくり削られている。山容はすっかり変わり、昔の面影はない。採石塔の跡地に立つと、岩盤をむき出しにした無残な姿に心が痛むばかりだ。

2001年9月2日付 四国新聞より転載

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