Home日本の富士関西の富士丹後の富士|このページ

丹後富士(由良ガ岳)

標高 640 m


1999年09月11日(土)
 曇り 気温33℃ 

 雨の予報だったが、朝7時半頃目を覚ますと日が射している。ザックに用具を放り込んで急に出発の用意をして出かける、遅い出発だ。
自宅09:00~中国道宝塚IC~舞鶴西IC10:59~登山口11:40

 

 

yama

2008年06月15日撮影

 舞鶴道は快適に走れて、2時間で舞鶴西ICに着く。ここから由良川を下り由良浜に出る。北近畿タンゴ鉄道の丹後由良駅から山側に向かうと正面に双耳峰の由良ガ岳が見える。(写真)
 登山口に駐車場があるのだが砂利道でおまけに急坂で、その上、でこぼこ穴だらけの細い道。私の車は通れないのですぐ下の国民宿舎「丹後由良荘」の掃除をしていたおばさんに「山に登るんですが車を止めさせて貰えますか」と頼むと「いいですよ」との返事。
 ありがたく駐車させて頂く。

三角点は西峰に

 西峰は標高640mで東峰はこれより少し低い。東峰山頂には虚空蔵菩薩が祭られている。

 写真の様に由良浜から眺めるとなだらかな双耳峰であるが、西から見ると端正な山容となっており「丹後富士」の名にふさわしい。

登山口

 国民宿舎「丹後由良荘」の駐車場を奥まで進むが登山道がない。

 おかしいなあと思いながら後戻りしてよく探すと駐車場の入り口左手に茂みがあり、その奥に小さな道標が隠れていた。道標はもっと手前に立てられないものかといつも不審に思う。どちらへ行けばいいんだと考える分岐点に無くて、一本道の所に立っている事もしばしばだ。

 山道に入ると赤松まじりの雑木の林が続く。

 どこからか12時のサイレンの響きが聞こえてくる。空腹を覚えるが、食べると歩くのがいやになるのでがまんがまん。
ミンミンせみが夏の名残の声を物悲しく秋の到来を告げる。

 だが、なんなのだ、この暑さは!!

 

  気温33度は真夏のものだ。汗をふきながら歩く。
道は正確に尾根についているが、露出した岩が少なく粘土質のせいか人の歩く道は水に土が流されて、深くえぐられたV字カットの状態である。こんな道はどこでもあるのだが本当に歩きにくい。
緩やかな所と、急坂が交互に繰り返されるので歩きながら呼吸が整えられる。20分で水場に着くが、通過。

 ここから30分は植林の中をジグザグでなく全くの直登の道が付けられていた。次の水場が「一杯水」だが脇へすこし歩かねばならないので、頂上すぐそことの道標を見て「一杯水」も通過(手や顔を洗いたいのを辛抱する)

西峰に向かう

 13:00に西峰と東峰のコルに着く

 先に三角点を目指す。今日出会ったのは中年のご夫婦と7~8人組の高年登山者のみ。この山も夏場はあんまり歩かれていないのだろうか、コルから両峰までの道は比較的背の高い笹でおおわれておりヤブこぎ道である。
西峰は周りが木々で展望は良くないものの、幸いな事に少し開けた側の眼下にあの有名な「天の橋立」がある。

次に東峰へ

 西峰から東峰まで25分くらいの距離

 ヤブ漕ぎをして山頂に飛び出すとそこには360度の展望が待っていた。
祠に納まる虚空蔵菩薩に手を合わせ、「今日の元気ありがとう」と祈る。

幸せな気持ちで

 ここでやっとコンビニ弁当を食べる

  由良川が流れて、浜がある。つい半月前までは海水浴で賑わっていた事だろう。  浜から由良川に沿って1両きりの青い車両がのんびりと走り、そのレールの音まで聞こえる。
西方に大江山から丹波の山並み、東には舞鶴湾をはさんだむこうに青葉山(若狭富士)がピラミダルにそびえている。

 下山も同じ道を歩く事になるが、1時間少しで充分である。

 付け足しーー由良浜は山椒太夫の物語(安寿と厨子王の悲話)の伝説の地で物語にまつわる旧跡が多い

ページのトップへ


2008年06月15日(水)くもり

 梅雨の晴れ間をぬって、再び由良ヶ岳に登った。


由良川の右岸より展望
  


Vカットの道
 

やまつつじが鮮やか
 

ツクバネウツギ

 

 

 一杯水

祠に納まる虚空蔵菩薩 

このページの終わりに虚空蔵菩薩を ” 信仰心のあつい中西与作夫妻であったが、経済的に恵まれず、心無いひとに悪評を云われながら立派な祠を完成させた感動の記録を載せたので長い言葉ですがお読みください。”



 山頂


2006年遊歩道ができる(上漆原からのコースはお手軽登山)




遊歩道脇にはノイチゴが、大収穫です



日本海に流れる由良川

 登山の記録

 国民宿舎登山口 10:20
 東峰      12:00/13:15(昼食休憩)
 西峰      14:20/25
 登山口     15:15

東峰の展望

syomei


参考資料

標高六百四十米

平間 克己

 愛しい雛を守る 母鳥の翼の如く

 由良岳の裾野が、集落を大きく包んている。更に標高640米の由良岳の頂上には「衆生が求める全ての物を自在に与える(知恵)と(福徳)の虚空蔵菩薩が見守って下さる。

この虚空蔵菩薩の鎮座まします祠は、明治初年以来、幾多の暴風雨、地震に威されながら微動だもせず百年の風雪に忽然として建ち続けている。
この祠を建てた人、中西夫妻である。そもそも由良岳に於ける「虚空蔵菩薩鎮座」の歴史は古く、奈良朝時代の山岳宗教の盛んな頃、修験者の道場として「青葉山松尾寺]、「世屋山成相寺」、「由良山如意寺」として栄えた。
特に中西与作一家は信仰心に篤く子供は、一人娘で、その娘さんも、仏道に帰依し晩年は「与作尼」と呼称し、村民から慕われた。毎年三月十三目「虚空蔵菩薩」祭礼が由良岳山頂で行われ与作一家は必ずお参りした。

 その度に木造の祠は朽ちる姿に拝みつつ心痛みを覚え、何とかして永持ちする祠を建立しなくては虚空蔵菩薩様に相済まぬと思った。

 元来、与件さんの仕事は「田普請」と云って、山田造りの仕事で生活してきた。平坦に耕作面積の少ない由良では、勢い山田を求めたのも生き残るための方法であった。
与作さんは、求める面積により勾配を計算レ直角を決める高さを割り出し土留壁の高さとそれによる土台の巨石を選定し、それを上手に操作し立派な山田を造った。
田普請の絶対の条件は漏水しないこと、次は仕上がりの華麗な城壁の如く見場のよい事である。与作さんの名人芸は,自然に人気が出て「この次の田普請は是非私の山田を頼む」と、引き手数多の盛況振りであった。
現存の山田の石壁は、殆ど中西与作さんの遺作だと云われている。
初めて夫から、祠建設の相談を打ち明けられた時は、猛烈に反対した。

 親戚縁者からも「一文の得にもならないばかりか、仕事の内容から考えても体に無理だ、それを知りながらするとはあきれ果てたばか者だ。」とののしられた。永年連れ添った妻として、一度言い出せば後に引かない夫の性格、それに信仰心からの一途な決心である。
他人に見捨てられるなら、せめて妻位は支持しなくてはと同意してしまった。これからは二人三脚の苦しい戦いである。それを知りながらの合意は夫婦の絆であろうか。

 先ず仕事の分担、与作さんの泊まる小屋を建てることである。
ちょうど由良岳の八合目こ石清水の出る処と場所を決め、その事により登り降りの時間の無駄と疲労を無くし仕事の能率を上げる。即ち、640米の頂上の仕事は与作さんの守備範囲である。

 女房の仕事の範囲は、子供の育児、川畑の耕作、それに最も大切な事は、一週間に一度は一週間分の米、副食物、着替えの衣類、好きな酒を持って山に上がる事である。振り分け荷物にしても640米の急坂を登っての食糧補給の役は女の身には、特に苦難の連続である。
例え当目雨天でも登らねばならない。又季節的に考えても田普請が終わる六月夫頃からみぞれの降ろ頃までの仕事。

 それには初めの年は簡単な小屋を建てるにしても、雨露をしのぐ藁葺きの屋根の材料運び、床板、窯造り、出入り口の戸、水瓶、ランプ、鋸、釘、など仕事道具の運搬は二人で行った。小屋さえあれば、雨の日は祠上の扉の小細工も出来る。この調子で計算してもニケ年以上はかかるだろう。

 女房の身になれば、もし夫が倒れたから夫の念願もついえる事になると、自らを励ましニこの目で祠の完成を見るまではと決心した。長い月日の二人の間にはこんなエピゾードもあった。今でも、お年寄りの笑い請となっている。

当時の世相は幽玄や化物が出る話は実際に見たと言う話などがあった時代、ちょうどその日は秋祭りであったが与作さんは下山せず仕事をしていた。一方奥さんは朝早く起き与作さんの好きな「ぼた餅」を作り食べさせようと、近所に子供を預け急いで山へ登っていく。

 与作さんは仕事をしながら、下から風に乗って聞こえる祭囃子を聞いていた。奥さんにすると、折角の「ぼた餅」を早く食べさせようと、途中の休み回数を減らし、息咳切って登ってきたのだから顔の相も別人に見えた。
与作さんは人の足音に気がつき上を向いた途端、女房に少し似ているが違う狐が女に化け、然も女房に化けるとはと早合点をして、「俺はお前たちけだものに騙されんぞ、まだもうろくはしていないぞ、早く逃げな、捕まえて殴り殺すぞ」と恐ろしい形相で立ち上がった。

 奥さんは、しばし唖然として立ちすくみ、石の上に「ぼた餅」を置き、阿保らしく思いながら一言も喋らず下山した。

 与作さんにすれば、真でこしらえた「ぼた餅」と見て、落ちていた細い枝で「ぼた餅」を突き差し、鼻の所まで持ち上げ臭いを嗅ぐが糞の匂いはせず、餡の甘い匂いする。「しまった、狐でなかったのか正真正銘の家内だったのか」と思ったが、それでも半言半疑で下界を見下ろした。
明治初期ごろ人家はまばらであり、帰る女房が歩くたんぼ道が良く見えた。小走りで帰る女房の後ろ姿を見ると、立腹しているだろうと思った。次の食料補給日こ謝るより仕方なしと、折角の「ぼた餅]にかぶりついた。

 この日の「ぼた餅」の昧は、格別おいしかっただろう。

●祠の規模は由良側を正面とし横(東西)9.6メートル、縦(南北)6.6メートル、高さ1.2メートルの立方体の基礎で作られている。

●周囲の土止壁は(与作さん得意の石積で)、正面には中央石段(1メートル巾の7段)があり、この台場上に祠が立っており基礎台からの高さは2メートルである。頭の部分は、兜式で風からご本尊を守る為、願い石が積み重ねてある。又祠の西側1.5メートルに石灯籠が1つ立っている。

●祠の台座の周囲31.4メートル、高さ1.2メートルに使用されている石敷は、大小合わせて約1000個以上であろう。工法は田普請と同じで、表面石壁とそれを支える裏込石がくさびとなり、土留目の役を果たす。その為台座が崩れず祠を守っている。

祠の姿は、まるで敵に一分の際も見せぬ剣聖の如く、時には烈風が引き裂けようとも、又地震の上下動、水平動が襲っても益々基礎が締まる工法なのか、祠に崩れが生じない。

 古老の話では、昔から小屋付近に多くの石が集積されていたようである。由良岳は八合目から急勾配なのに、先輩たちが多くの石を担いで登ったとは、驚くばかりである。

 こうして完成した祠は、烈風の吹く寒い日にも泰然自若し対処するが、毎年4月29日、由良公民館、由良登ろう会共催の由良岳登山は、うららかな春日和、慈悲あふれる祠ご尊顔に感動を覚え、「又今年も元気にお参りできました。」と両手を合わす。実に神秘的な祠である。

 更に与作さんには、祠の外にもう1つの念願があった。それは由良岳を少しでも高くしたいことであった。

 由良岳の南に赤岩山かあり、由良岳より29メートル高く、東の若狭境に由良岳より59メートル高い青葉山がある。

 古老の話では、祠におまつりしている虚空蔵菩薩さまに「願」を懸け、数え年13歳の子供に石を持って参らせ、その石を高く積み上げる事により、その子供の「願]が叶えられるお告げがあった。

 これが、いわゆる「十三参り」の風習となり、有名になって拡がり、多くの人々が近郷近在より集まったが、この風習も終戦と同特に少なくなった。

 古老の話では、この願石は海水で清め、海草で包み、わら繩でくくり、念願を唱えながら積み上げる。その為海草に産み付けた船虫の卵がかえり、由良岳山頂にたくさんの船虫がいたとの事だが、今現在この風習がない為、船虫を1匹も見つけることができない。

 例祭日の十三日や、十三参りの十三について虚空蔵菩薩様は、十三仏中十三番目に当たる。

1.不動明王  2.釈迦如来  3.文殊菩薩  4.普賢菩薩  5.地蔵菩薩  6.弥勒菩薩

7.薬師菩薩  8.観音菩薩  9.勢至菩薩  10.弥陀如来  1 1 . 阿閃如来

12.大日如来  13.虚空蔵菩薩

以上、十三の明王、如来、菩薩かおる。

 信仰心のあつい中西与作夫妻であったが、経済的に恵まれず、心無いひとに悪評を云われながら立派な祠を完成させたが、売名的な事を一切していない為か、知らない人が多い。

 宮津市役所で与作さんを調査したが、明治10年頃は未だ戸籍法の制定がなく、わからなかった。

若しかしたらと、地元の菩提寺である松原寺の過去張を調査してもらった結果、仏縁と申しましょうか、判明しました。

戒名 郭然自性信士(与作事)
死亡 明治10年2月29目
戒名 即心戒如信女(与作妻)
死亡 明治19年2月T6目

立ち会って頂いた松原寺 故藤原慧等和尚曰く 「この戒名は格調の高い立派な戒名だ。」
名も無く、貧しく、美しく死んでいった中西与作御夫妻に改めて、此処につつしんでご冥福を、祈りあげる。
    合掌。
この文章は故平間 克己氏[元由良地区公民館主事]の原文を複製したものを転載。

ページの先頭へ戻る

Home日本の富士関西の富士丹後の富士|このページ