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但馬富士(三 開 山)

標高 202m


2001年03月20日
 晴・気温19℃ そよ風

円山川と富士

 中国山地の東のはずれと京都北部の山地の間を円山川が両山地からの水を集めて北へ流れ日本海に注ぐが、この円山川の下流部は但馬という。

 但馬のほぼ真中は現在の豊岡市である。
私達は八鹿から円山川に沿った国道312号線を北に向かって車を走らせている。車の数も少ないし、起伏もなくゆったりとドライブが楽しめる。
 豊岡に近づくと対岸の東側に左右均等に裾を引く美しい形の山があることに気づき心を引かれる。

 この山こそ但馬を冠する「但馬富士」である。
正式名は三開山(みひらきさん)で、山頂には三等三角点がある。標高は202mと低い山であるが、周りには円山川と田園が広がるほぼ独立した峰であり目立つ存在である。

「但馬なる富士とはいはん三開の
かすみ棚びく篠岡の里」

 (沢庵和尚の歌)

暑さ寒さも彼岸まで!

 厳しかった冬の寒さも一転うららかな春となった。今日の天気予報では気温が21℃になるとのことである。昨日の雨で濡れた地面が太陽に暖められ昇る水蒸気は早春の朝モヤとなりたなびき、その中に富士が浮かぶ。

三開山城の歴史

 豊岡盆地を一望に見渡す三開山は往昔より戦略要衝の地であり、又周辺の山中到る所に大小の古墳が点在し、この地方が古代から開けていた土地であることがうかがえる。
 建武4年(1337)但馬の南朝勢は、援を新田義貞に乞うて、子義宗をこの城に迎え北朝勢に挑戦するが、足利尊氏に攻められて落城する。この後も築城落城を繰り返す。
 三開山城は東西に走る稜線を主軸に構築された梯郭式の山城で、中腹には屋敷跡も残って、中世の山城遺構を今に伝えている。

西から東へ主稜線を歩く

 山頂へは四方から小道が通じているが、私達は西尾根から登り、東尾根を下るルートをとる。
木内(きなし)の瑞峰寺(禅宗)参道から登山道は始まる。山門前の駐車場に車を止め、先ずはお寺さんに彼岸のお参りをする。方丈には「見叢山瑞峰寺」と書かれたケヤキの一枚板で作られた巨大額が掛かっている。

 (09:10)寺の墓地への階段を上がり山へ入って行く。左は雑木、右は竹林が続き、太い竹も雪の重みで弓なりに曲がり山道に折れた竹や古木が行手を塞ぐ。雪解け直後で湿った落ち葉と露出した赤土に足が滑る。人の足跡は無く獣(鹿か猪)のフンと爪跡が道一面に残っている。

 低山であるが傾斜は思いのほか急である。10分も歩けば左側が疎林となり木々の間から周りが見えてくる。道脇に四国88ケ所の石仏が点々と置かれ、山の斜面には古墳が多く残る。山頂への中間点あたりには割と大きな古墳(石組が壊れかけている)が道のすぐ横にある。

 山頂に行くに従い坂は急となる。
山頂部は山城の砦の様相(4段に築かれた遺構)が今も残る。この急傾斜の段を枝や笹につかまり登り切ると東西に長い平らな山頂に着く(09:45)

桜のある明るい山頂

 山頂に出たとたんパッと広がる視界に驚く。
低い小さな山にしては広々とした山頂だ。相当大きな山城があったものと想像される。
周りには桜が植えられており、花の頃は近くの子供たちの楽しい声でにぎわう事だろう。そして北に流れる円山川流域の整然と区画整理をされた田畑や家々が富士を囲んでいる様子が展望される。

 (10:15)下山は東へとり神美小学校へ向かう。
"ふれあいのこみち"との標識がある。よく歩かれた幅が広くてゆるやかなハイキング道が小学校の校舎裏へと続いており、小学一年生でも安心して歩ける"こみち"になっている。

 (10:45)小学校横の公民館広場で一休みを取り、瑞峰寺までうららかな春日の田舎道を戻る(11:35)。

登山のあと

 但馬の小京都出石を訪ねる

 但馬へ来たら古き時代の面影を残す出石を見逃す手は無い。
名物は何と云っても「出石そば」だ。
小さなお皿に盛られたそばを頂くのだが、少ししか盛られていないので普通で5皿くらい、多い人は10皿以上も注文される。私は標準で5皿にする。

 出石城址――石垣と隅の櫓が残るのみであるが、往時の状況は推察される。
城址のそばにある、辰鼓楼は特に有名。現在は時計台替わりになっているが出石のシンボル風景である。
出石神社(但馬一宮)や沢庵和尚で有名な沢庵寺の名勝庭園などを拝んだり観たりする。

「山もよし 但馬の里は 庭もよし」

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