三方富士(鶴ヶ嶺)
標高 416m
戦国時代、鶴ヶ嶺城(1512年に垣屋続成が築城、山頂に鶴ヶ嶺城Ⅰ、標高250mに位置する鶴ヶ嶺城Ⅱ、標高160mに鶴ヶ嶺城Ⅲ「栗山城」の3つの城砦からなる。曲輪跡やU字形竪堀の跡が調査で見つかっている)が鶴ヶ嶺(三方富士)の山頂にあった。
城主は豊臣軍の戦に加わり戦勝の功労として一万石の大名になったそうです。この地域、現在は兵庫県城崎郡日高町に合併されているが、合併前は「三方村」とゆう地名であった。
「三方富士」と呼ばれる由来は村名から来ている。正式の名は「鶴ヶ嶺」といい、標高は399.6mである。東側(森山ふきん)からの姿は端正なピラミットそのものである。
山城があったとはいえそれは数百年も前のこと。今は登山者もなく、また山の手入れに入る人もまれで道は無いに等しい。そこでまたまた役場で道を尋ねる事にした。「観音寺(鶴ヶ嶺の東側の集落)の村人にお聞きしたら」とのご返事だった。
尼崎からは車で出発。176号線で篠山、427号線で和田山を通過、9号312号を経由して日高町観音寺へ。
ピラミッドの富士型の山が前方に見えるので、その方向に車を走らせる。近づいたところで少々うろうろしたが、丁度交番が目に付き道を聞こうと飛び込む。
中に入ると赤ちゃんの泣き声がしており、取り込み中のおまわりさんが赤ちゃんをだっこして奥から出てくる。親切に道を教えてくれたのでなんとか観音寺の山門に辿りつく。
そこで通り掛かりのおばさんに「登山道を知っている方はいらっしゃいますか」と伺うと村の長老を呼んで来て頂く。
まったくなんというか田舎の人達は親切である。
山道を尋ねる所が、おじい様よほど話相手に飢えておられるのか私達に色々と聞かない事までお話になる。
観音寺の仁王門は国の指定は受けていないが室町期の重文ものとか1時間もだ。
(桁行三間、梁間2間、一重、寄棟造、瓦葺で兵庫県指定文化財である)
なかでも自慢の種は銘木のお話で、幻の「入玉欅」という欅(けやき)のこと。
樹に玉の斑入りがあり、なんでもこの樹は直径1mもあれば一本が3億円もするそうである。
そのまぼろしの樹が彼の山で見付かり、何年も試行錯誤の結果接ぎ木で増やすのに成功したそうである。
孫子は将来が楽しみな事だ。
笑顔でお話しを気持ち良く聞いたからだろうか、かぼちゃを持って帰れと二個いただく。
おじいさんは指差して、寺のイチョウの木の右手に小川があり丸太の橋があるので、それを渡って植林の中を行けば良いと教えてくれた。下山は西の方からでも降りられると言う。
山を見てどんな風に山頂へ向かえば一番楽なのかすぐ分かるものでもないので、教えに従うことにし、車をお寺の境内に駐車して真夏の登山を始めた。
丸太橋を渡り背よりも高いブッシュをかき分けるが道は横へ横へと続き民家の裏庭へ出てしまった。
最初から間違ったようなので引き返し、寺の裏を少し上へ進むと草に隠れた丸太が見えたので今度は大丈夫だろうと谷川をさかのぼる。
谷川に沿ったかすかな踏み跡はすぐに消える。
沢に沿ってブッシュをかき分けるより、人が入っていないとは言え植林の中を歩く方が楽であるので杉の間を登る。
坂はそうきつくはないが、真夏のこの時期に薄暗くて展望の全くない山を登るのはしんどいものだ。
城が消えて数百年経ったとはいえ、武士達が登った面影がほとんど残っていないのが不思議である。
杉の中をどう進もうかと思案しつつもジグザグに上へ上へと休むことなく歩いて約90分で東尾根の一つのピークへ到着。ところが展望といえば木々の間から山頂がやっと見えるくらいなもの。
小休止の後、尾根に付いた踏みあとを鞍部へ下り最後の登りに取り付く。もう少しだと自分に言い聞かせ息を整える。
どれくらいの速さで歩くかは人によって違うものである。自分より速い人に歩調を合わせればすぐに息が上がってハアハアと苦しくなるので、あくまでも自分の歩調と呼吸を守るべきだと思う。私はあんまり体力が強くないので、ゆっくり歩く事に徹している。そうすれば一時間でも二時間でも休憩を取らずに歩き続ける事が出来る。
さて山頂はというと、鶴ヶ嶺登山記念と書かれた木の角柱がひっそりと一本立っているだけ。
そして生い茂った樹木で周りの展望はゼロ。
富士と古城探索の登り2時間、下り1時間の楽しい夏山登山であった。
三角点
399.6mの地点にあり 未確認