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ハリマ富士(飯盛山)


 
2万5千分1地形図名 : 北条 [南西]
種別   三等三角点 (北飯盛)
標高  197.9 m
北緯34度55分33秒,東経134度47分1秒

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南東から「ハリマ富士」を展望

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南から展望

交通 マイカー 
■ 
尼崎(08:30) → 宝塚IC → 中国道福崎IC → 八千種 ~ 登山口(10:00)
 

歩く距離 約 3km
 行程 : 登山口(10:20) ~ 富士山頂(10:35/45) ~ キャンプ場(11:00/15) ~ 登山口(11:45)


2007年04月10日(火) お花見日和

 中国道福崎ICを降り播但道にそって南東へ2kmほど下ると八千草、鍛冶屋地区があり、飯盛山はここにある。山の北西に位置する八千種から眺めてみれば、「八千種富士」の愛称で呼ばれるにふさわしい山容である。

 「八千種富士」の云われ へ

 「ハリマ富士」の云われ 調査記録へ

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八千種より展望(作成画像はカシミール3Dによる)

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鍛冶屋熊野神社の横に車を停め、いざ登城。

山頂にその昔、春日城があったが秀吉により落城された。今は山城跡がかすかに残るのみ。

 山頂への道は近畿自然歩道、春日散策の道となっており山道は歩きやすく、きれいに整備されている。低い丘のような城山であるが意外と坂は急傾斜である。道脇に伸びているワラビを鑑賞しながら登れば、15分ほどで山頂の城跡に着いた。

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山頂の春日山城跡

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 キャンプ場へ下る道もたいへん急坂だ。秀吉が責めあぐんで火攻めにしたというくらいだから。道には白いスミレ、ショウジョウバカマ、つばきや三つ葉ツツジのピンクが心を和ませる。枯れ木も柔らかな新芽を伸ばし始めている。

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 飯盛山裾野に広がる福崎町のキャンプ場にはテント場や炊事場付きのバンガローも備えられ、キャンプファイアー場もある。

 駐車場へ戻るため富士の裾野をブラブラと菜の花、さくらや桃の花、タンポポやかわいいツクシなど山里の景色にどっぷりとつかりながら歩く。ウグイスがホーホケキョ、トンビはピーヒョロロ。

 本当に心安らぐふるさとでした。

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八重咲きつばき   ??――スミレ

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ショウジョウバカマ   ミツバツツジ

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山桜    タンポポ(八重咲)

富士のいわれについて

 「ハリマ富士」の紹介

 「春日山の別称」についてですが、「八千種富士」ではなく「播磨富士」と呼ばれているようです。(地元集落の方がまれに呼ぶ程度であり、一般的には播磨富士という言い方もめったにしないようです。)

 産業課内・教育委員会・鍛冶屋(地元集落)営農組合に対して、聞き取りを行いましたが、いずれの回答も同じでした。加えて、(旧)福崎町観光パンフレットにも「ハリマ富士」として記載されています。

福崎町役場産業課 0790-22-0560  (2007年4月)

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 「八千種富士」の紹介

 

兵庫県学校厚生会が発行した「郷土の城ものがたり」中播編より引用

 

古い城あと二つ八千種  (福崎町)

八千種は、長い歴史と伝統を誇る町です。

 むかしは他馳里といわれて、そのむかしをたずねると、遠く原始時代までさかのぼらねばなりません。そのころ、この播磨の地を平定したのはスサノオノミコトの子、オオナムチノミコトと一族でした。

その子孫が住んでいるところへ出雲地方(島根県)からオメノヒボコノミコトが、八干の軍勢をひきつれて攻めこみ、ここ八千種の地で勝利をあげました。そんないわれがあり、八千の軍勢ということで、八千軍野(いくさの)の地名がおこりました。その後八千軍野は八干草となり、草はやがて種をつくるということから八千種とかわったということです。

この地に、いまも古い城あとが二か所のこっています。その一つは春日山城であり、もう一つは高峰山城です。

 春日山城は八千種の東南にそびえたち、「八千種富士」という名もある海抜百九十三・五メートルの春日山にあります。この山は周囲が池や田畑でめぐらされ、まったく孤立した山です。東は小倉を眺め、西は山すそに鍛冶屋町、南は山田町をへて、広大な播磨に白鷺城をみ、また、飾磨の沖の舟が手にとるように見られます。北は、もう一つの高峰の古城あととあい対し、遠く中国山地の北の山山の峰を見ることができ、八千種にとっては最も誇りとする名山です。

高峰山城は、八千種の北端にそびえ立つ峻峯高峰山にあります。東は加西市につづき、春日山と同じく播磨平野を一望のうちにおさめ、飾磨の沖の真帆片帆をとおして遠く家島群島がみわたされる景勝の地にあります。

ここで話題をかえて、この二つの城のできた由来や城主や、それにまつわる話をしらべてみましょう。

 豊臣秀吉が天下を治めるようになるまで、約二百五十年にわたる戦国時代は、わが国でもっとも多くの城がつくられたときでした。播磨の土地は地味も豊かで山野も開け、武士の争いのもっとも多かったところです。そのころは全国に、三千の城があったといわれていますが、その中の約百三十三は、この地で占められていました。

建武の中興で、武家の政治から一時天皇の政治にかえったとき、功績のあった赤松則村の配下で、有名な後藤又兵衛の一族でもあったといわれる後藤三郎右衛門基明とう人が、春日山に城をつくってたてこもりました。しかし、基明は文和三年(一三五四)、足利義詮の軍にしたがって摂津の神南山で山名氏の大軍と戦い、同年二月神南の合戦で死亡しました。その子孫は、播磨へしのびこみました。

 その後、ここの城主は不明でしたが、応仁元年(一四六七)赤松氏が播磨の地に進出し、山名氏の軍を追っぱらいました。このとき赤松氏のためにてがらのあった基明の子孫が認められ、ふたたび春日山城の城主となり、その後長く城を守りつづけました。

 しかし天正五年(一五七七)豊臣秀吉が、三木城に別所長治を滅ぼし播磨を平定したとき、翌六年(一五七八)にこの城も落城の運命にあいました。これが春日山城の最後となったのです。

春日山は、ずいぶんと急なのぼりで、攻略にあたった秀吉の軍勢は、おおいに悩みました。そのため火攻めにして、城はいっきょに陥落したといわれています。

ということで、いま山上で、そのころの遺跡をしのぶこれというはっきりしたものは見つかりません。ただ山上の広いことと、二段構えのあとのあるところから、これが想像されます。また、火攻めにあって、たちまち消えてしまったところなど、あるいは春日山城は葺ぶきで粗末な小屋だったのかも知れません。

頂上の南には大きなほら穴があります。これは多分、城の武器か、食糧の倉庫だったのではないかといわれています。ここには、昔、観音さまが馬でこの山をたずねられたとぎのひずめのあとが残っているというので、かんのん岩山」という別名もあります

(註)

財団法人兵庫県学校厚生会 078-331-9955
「郷土の城ものがたり」は1973年発行、現在は絶版ですが各地の図書館で閲覧可能です。

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